2018年8月3日(金)、東京・有楽町で行われた「有楽町清涼フェスタ2018」に出演した北九州市出身のシンガーソングライター・池端克章さんにお話を伺ってきました。
歌手を目指したきっかけから今後の活動まで、池端さんが熱く語ってくださいました。必見です!!(協力:北九州市東京事務所)
シンガーソングライター・池端克章インタビュー
学校の先生か消防士になりたかった
初めて人前で歌を歌ったのは、高校の学園祭の「部活動対抗歌合戦」です。軽音部に負けて準優勝に終わったんですが、会場がとても盛り上がったのをよく覚えています。でも中学、高校と勉強と部活でいっぱいいっぱいで、音楽に割ける時間もなく、この時点で音楽の道に進むことなど全く考えていませんでした。
野球が好きなので学校の先生になりたかったんです。あとは消防士。
大学は教育学部の体育科のある所を目指していました。でもセンター試験の点数が足りずに第一志望の大学を断念し、近場で雰囲気のいい山口大学に進むことにしました。
友人の家でギターを見た翌日、自分のギターを買いに行く
大学に入ってからは、とにかく暇でしたね。映画館も遊ぶところもなく、JR も1時間に2本ぐらいしか通ってないような田舎でしたから。友達と飲み会などをしたりしていたんですが、生活に物足りなさを感じていました。
そんな生活を送っていた大学2年の冬のある日、友達の家に遊びに行ったらギターが置いてあったんですよ。友達がギターを弾く姿が格好良く見えて、その場でギターを教えてくれと頼みました。何かピンと来たんでしょうね。翌日すぐヤマハに行ってギターを買いました。
それからは毎日のようにギターを弾く生活に。大学の授業が終わったら一目散に家に帰ってギターの練習です。そういう生活を続けていたら何となくギターが弾けるようになりました。友人とゆずやコブクロをハモって歌ってましたね。
初めての路上ライブからCDの発売まで
大学3年のときに友人と二人で、山口大学の近くにある湯田温泉という観光地で、週末に観光客向けに路上ライブを始めたんです。そうしたら、初めての路上ライブでお客さんに「オリジナルの曲を聞かせてくれ」と言われたんですよ。そのときはまだオリジナルの曲はありませんでしたし、作り方もわかりませんでしたから、友達と慌ててオリジナル曲を作りました。
そのオリジナル曲を歌っていると、今度は「CDは売ってないのか」とお客さんに言われ、慌てて山口駅前の大きな楽器屋さんにいるギタリストの方にCDの出し方を教わりに行きました。今考えると怖いもの知らずだったと思います。
このとき作った7曲入り1000円のCDは順調に売れました。
この頃から、路上ライブも第2第4土曜など日付を決めて実施するようにしました。毎回来てくれるファンの方も増えてきましたし、山口では路上ライブが珍しかったからか、商店街を塞でしまうくらいお客さんが来たこともありました。
ケーブルテレビ局からのオファー「就活よりロケ優先」
このとき、ケーブルテレビ局から番組出演のオファーがありました。福岡で流れているドォーモ(九州朝日放送)やナイトシャッフル(FBS福岡放送)のような番組です。就活の時期にもかかわらず、局から出された条件は「就活よりロケ優先」。リーマンショックの年に何てことを言うんだって思いましたね。
自分はテレビの仕事をやりたかったのですが、一緒に歌っていた友人は就活をすることを希望しました。二人で話し合った結果、ここからソロ活動をすることになりました。
1日のロケで1週間分くらい撮っていました。ギターを持ってレストランに行ったり、イベントに行ったり。番組の最後にその日の模様を1分くらいの即興ソングにして歌ってました。
毎日テレビに出ていることで、周囲の反応が変わってきましたね。テレビ局を通じてライブの依頼がくるようになりました。しかもギャラ付きで。結婚式で2曲歌って3万円もらえるんです。普通にバイトしたら時給800円くらい。なんて素晴らしい仕事なんだと。
そして、路上ライブではCDがよく売れるようになりました。多いときには1日5万円ほど売り上げることも。このあたりから歌うことを職業にすることを意識するようになりましたね。
就職するか、歌を続けるか
「歌を職業にしたい」と親に言ったところ、大反対されました。父親は「大企業に勤めるか公務員になれ」と。最終的には勘当されました。学費も仕送りも全てストップです。
そこで、借りていた奨学金をテレビやCDのギャラで全額返済し、1年間休学することにしました。ロサンゼルスにボーカルレッスンに行ったり、それまでなかなか行けなかった東京や大阪に行ったり。結果、音楽で生活したいという気持ちは全く変わりませんでしたので、就職をしないことに決めました。
やるなら「歌一本」の生活をしたいと思ったので、そのときに「バイトをしない」「就職をしない」「音楽以外でお金をもらわない」という誓いを立てました。
大学を卒業するときは東京に行くか福岡に帰るかの2択でした。都会で勝負しなくては、と思ったのですが、地元が好きなのでとても悩みました。福岡で一旗あげれば何かしら東京に行く手がかりを得ることができると思ったこと、そのときファンの方が増えていた山口にもすぐに行けるということで、北九州に事務所を借り、活動をスタートしました。