エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品
黄金時代。
俺にとっての「それ」は、いつの日々だったのか。55歳の今、「それ」は老いていく現在ではない。といっても、社会人―社会的責任という精神的な呪縛から逃れられない大人―以降でもない。
憧れの東京でのサークルとバイトと失恋の「魔のトライアングル」を行き来した大学時代。進学校に進み、登山部の部室で、賭けドボン(もう時効だ)に明け暮れ、勉強にもがき苦しむも、愉快な仲間に支えられた高校時代。マイナースポーツの卓球部に入部したちょっと荒れた新設校だった中学時代。それらは、そうかもしれないが、あくまでも「準黄金時代」だ。
人生を遡ってみると、小学4年の3月9日まで過ごした第一K時代が、「それ」だと思うとしっくりいく。
「学期末の中途半端な時期に、何で転校したんだ」。人はそう思うだろう。何てことのない理由だ。両親が中古で購入した家の前の小川にかかる橋が、工事で一旦壊されるから、引っ越しトラックが通れる3月9日に越した。
そこで、第一K時代に通ったKUS小学校3年3学期の通知表をもって、第二K時代であるKUZ小学校に転向したのが、翌3月10日。
日付を明確に覚えているのは、翌年の3月10日は山陽新幹線博多開業(いや小倉開業といい改める)の日だからだ。大動脈が博多駅まで達したこの日を境に、人・モノ・金が県庁所在地に一気通貫し、我が北九州市とF市の趨勢が逆転した。
つまり、小学4年の3月10日は、俺の黄金時代が終焉した日であり、その一年後は、寂れた北九が幕開けした日でもある。
さて、KUS小学校のある第一Kは、一駅行けば、自動車産業で有名なK町。今は、同じく企業城下町の最前線である八幡のC町に住んでいるから、比べると「とんでもない田舎」だ。
当時の家のトイレは、汲み取り式。とにかく臭かった。家の前の道は、砂利道で、雨が降ると水たまりができる。その水たまりが小さくなるように、近所の人たちは、アサリを食べた翌朝には、その貝殻を水たまりに捨てる。砂利替わりだ。
第一Kには、病院が一件しかない。赤煉瓦の塀の中にある町医者のいる瀟洒な病院。子供時代は知らなかったが、医者は儲かるらしい。高校時代の理系の奴らは、ピンからキリまで医学部を目指していた。儲かるからだ。合点がいく。しかし、文系の俺は、門外漢。
瀟洒な病院に住むH先生は、風邪気味で病院に行くと、まずは、検温。俺は、中学は一日風邪で休んだだけ。高校は、不屈の皆勤賞。滅多に風邪はひかないが風邪気味。体温は平熱。そこで、H先生は、いつものセリフを披露する。「熱が無いのに、なっしゃかな?」。で、病院から無罪放免。自宅療養だ。
好きな人もできた。KUS駅近くにある幼稚園に通っていた時の先生だ。掲示物を貼るために、パイプ椅子に登ったところを、スカートの中身を下から俯瞰。「先生!パンツ見えた」。一発で嫌われた。
失恋のほとぼりが冷めた小学一二年でクラスが一緒だったKSを好きになった。奇しくも、高校時代に再開したKKが学級委員長。KSは副委員長。当時は、男子が学級委員長で、女子が副委員長。そんな時代だった。
KKの話をする。親父は、西鉄労組のお偉方。もちろん、筋金入りの太平洋クラブライオンズのファンだ。俺も、お袋の影響で、史上最強の西鉄ライオンズの流れをくむ弱小・太平洋ファン。小倉球場で、74年6月11日に、対日ハム戦を初のプロ野球観戦。先輩でもある楠城徹捕手(現九州国際大付監督)のデビュー戦だ。先発は、数年前に逝去した鉄仮面こと加藤初さんだ。弱い。やはり負けた。判官びいきだ。それから、「九州男児(死語?)は、ライオンズファン」をキャッチフレーズにしている。翌日、KKと反省会。それから、野球観戦にハマった。
甘酸っぱい「KS」。立場上、一緒にいれるKKが羨ましかった。といっても、俺は、落ち着きなく、学級委員長タイプとは、対極に位置していた。アニメ「キャンディ・キャンディ」の主題歌の一節を地でいく、そばかすを気にしない女の子だった。
コロナ禍で自粛中の3月31日、西鉄の一日フリーパスで、第一Kに凱旋した。S池前バス停で下車。凱旋のお迎えは、もちろん無し。「KS」の実家があったと思われる家の前を通った。表札はSではなかった。何となく寂しい。てくてくと歩き、S池を一周した。桜は満開。訳アリ風の中高年カップルの会話が風にのり、聞こえた。名もなき鳥のさえずりとハーモニーとなった。女性「気持ちいい」。男性「そうだろ」。
俺のホームグランドのS池―KUS小学校時代の遠足地。今年、89歳になるお袋が作った弁当とK駅前のスーパーで悩んで買った300円のお八つ。それをリュックに入れて、テクテク行った。当時は、まだまだ桜の名所ではなかった。お袋の弁当とお八つがありきで、S池は、世界に誇る俺のナンバーワン観光地となった。
作者:隆志=トマス=濱中さん