おじさんの声掛け【エッセイコンテスト 入賞作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入賞作品

私の生まれた町は、小倉駅裏の浅野町。
こうしてエッセイを書くことになったので、当時の思い出を綴ろうと思う。
小倉駅の裏も、随分様変わりをした。
私が通っていた米町小学校。運動場の広さが自慢で、藤棚や土俵があった。目を瞑ると鮮明に思い出す。西日本総合展示場の裏手にある石碑には、校歌が彫られている。それを見ると、つい歌ってしまう卒業生がきっと居るはず。近くに用があると、必ず足を運んでしまう思い出の詰まった石碑だ。
私が幼い頃は、ボーリング場やゴルフ練習場もあり、ピーピー豆が沢山生えていて格好の遊び場だった。
サーカスが来たこともある。近所の友達と、サーカスが終わる頃に出口から入り込み、何度も何度もサーカスを見た。なんてことをしてたんだろう。スタッフの方たちも気づいていたんだろうけどいつも何も言わずにいてくれた。きっとキラキラした目で見ていたんだろう。

小倉駅の近くに住んでいたので、朝の散歩というと私は弟と妹を連れ、まだ店が開いていない静かな魚町銀天街まで行っていた。
いつもは人で賑わっているその場所の、いつもと違う静かな通りが何故かとても好きで、その帰りには必ず妹が「歩けん。おんぶ!」というお約束。3歳の妹をおんぶする7歳の私。お姉ちゃんなんだから、というちょっと誇らしげな感じがあったように思う。

母に頼まれて、朝早くからシロヤのパンを買いに行く。もちろん徒歩。
銀天街、井筒屋、市民プール、勝山公園、旦過市場。
何処へ行くにも歩いて行けた。とても便利なところに住んでいたが故に、バスや電車に乗ることがなく、それは憧れの乗り物。
路面電車は、当時の小倉の当たり前の風景の中にあって、どこへ行けるんだろう。興味は止まらず、友達と電車に乗り北方まで行ったことがある。もちろん親にばれて、先生にもばれて、鬼のように叱られた。電車と聞くと、先ず思い出す記憶。どれくらいの年齢までが、電車通りという道案内で通じるのかを調べてみたいと密かに思っている。

遊び場と言えば、浅野公園。少し大きくなると、暑い日は井筒屋へ涼みに行くようになる。「暑いねー」「井筒屋行こうや」「屋上でフローズンコーク飲もうや」がお決まり。当時、井筒屋の正面入口の噴水は、私たちの避暑地。屋上は遊び場だった。市民プールの帰りも、必ず井筒屋で涼む。生意気な小学生だ。

友達の多くは、親が商売をしている子だったので、遊びに向かう途中に、お店の前に立っているおじさんが「どこに行きよるんね。気をつけて行くんよ。早く帰らなよ。」
決まってそう声を掛けてくれていた。何のお店か小さい頃は分からなくて、母に聞いたことがある。「お母さん、ここのお風呂は五千円もするっち書いとるよ。高いねー。」大きくなってから、そのお店が理解出来た時、なんて事を聞いたんだと笑ってしまった。お店の事はわからなかったけど、そうして声を掛けてくれるおじさん。
50になった今でも、忘れられないその声掛け。

小倉の町は、私が覚えているおおかた45年ほどでも色んな物がなくなり、そして色んな物が出来た。モノレール、リバーウォーク、チャチャタウン、到津遊園地もいとうづの森公園に変わり、宇宙をイメージしたスペースワールドも閉園してしまった。そんな中でも、私が一番びっくりしたのは、動く歩道だったけど。

町並みは変わっても、このちょっとした声掛けが、いつまでも残る町。
小倉の町は怖い。そんなイメージが強いけれど、こんな温かいエピソードが伝えられる機会があってよかった。
「あんた」や「なんち?」など、言葉が強いと言われる北九州。小倉に住んでいるのに、街に行くことを【小倉に行く】という小倉北区南区の人たち。
温かさあふれる私の大好きな北九州。
たくさんの思い出がこれからもここ北九州で増えていきます。

著者:おとめぐさん