再生の街 生命の海【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

大きな煙突がそびえ立っていた。
小学生の自分からすればそいつらは直立不動の巨人のようで、灰色の煙を黙々と吐き出す所業は、太陽さえも霞ませるほどでたくましくさえ思えた。

真夏の暑い日「光化学スモッグ警報」が発令されると教室の窓を閉めさせられる。小学校にクーラーはない。授業中下敷きでパタパタと仰いでいると先生から大きな木の三角定規で頭を 小突かれてた 。クーラーの代わりに僕らの背より高い縦型の空気清浄機がありそこから噴き出す風に涼を求めた。僕は密かにそれをアメリカの SF テレビドラマに出てくるロボットの名前をいただき「フライデー」と呼んでいた。日直の当番時には仕事にはなかったが仲の良かった用務員さんと一緒にフィルターにホースで水をかけて洗ってあげていた。フライデーの真ん前は僕の特等席だ。

洗った後は風に変な匂いが混じらない。ちょっとした優越感に浸れる唯一の場所だった。ジャバジャバと放課後の足洗場で飛び散る水しぶきの向こうに虹を作るのが得意だった。密かに恋心を抱いていたあの子が「わあ、キレイ」と近づいてくるとドキドキと水道水の匂いで鼻の奥がつんとしたものだ。

学校の裏には高塔山がある。工業用の油の匂いがするロープウェイで山頂に登るとちょっとした遊園地があった。白鳥やボートの形をして人口の池をぐるぐると周る乗り物が好きだった。親と行った時には必ず一度は乗せてもらう。 たまに係のおいちゃんが「もう一回乗り。」とサービスしてくれる。子供たちだけで行く時は白山神社の階段を誰が1番に駆け上がるか競争し、境内で休憩がてらに遊んでから山頂まで遊歩道ではない山の傾斜を登る。途中に僕らしか知らないクヌギの木がありそこに砂糖水やブドウ果汁をしみこませた綿で作った罠をしかけ次の日の朝早くに行ってカブトムシやクワガタ、カナブンなどを捕まえてから登校し学校で自慢するのが夏の定番だった。高塔山には世界を守るための秘密の基地があり区役所でスイッチを押すと山の中腹が音を立てて開きそこから最新の飛行機型ロケットが出動すると信じていた。若松区役所のレトロな風貌が「いかにも」感をさらに 掻き立てる。 空き地がたくさんあった。野球やビー玉をして遊んだ。潮の満ち引きの大きな日には若松の北海岸へと自転車を飛ばした。モリと網を持って赤岩と黒岩と呼ばれるポイントへ行くと大きな岩の間で逃げ遅れた魚やタコが採れる。

響灘側とは対照的に洞海湾を渡船で渡る際には波しぶきがかからないように注意した。白いシャツに着くと茶色いシミが付く。海からはドブの匂いがした。茶色く濁る波間に動物や魚の死骸や生活ゴミが 漂う。船上から海をのぞき込むとプクプクと得体のしれない泡が透明度のほとんどない海から湧いていた。それでも僕らは壊れかけた桟橋や大きな排水溝で遊んだ。恐らく近場の子であれば2回は湾に落ちたことがあるだろう。

社会の教科書に北九州工業地帯という名称があった。公害という文字が躍っていた。しかし暮らす上で特別な事はなにもなかった。子供心に生活の垢のようなものだと思っていた。自然と工場が共存している街 それが子供の頃の北九州の風景だった。

僕と同じ年の若戸大橋によく登った。
エレベーターで歩道口まで上ると戸畑まで歩いて渡れた。
エレベータを出て階段を上がると小さな展望台がある。
そこから見える北九州の街が大好きだった。橋のくすんだ赤が僕らの身代わりになって公害や災害から守ってくれていると信じていた。夏になると土曜日には夜市が開かれ銀天街は遅くまで賑わいを見せワクワクとドキドキの冒険のような毎日。
これが当たり前だと思っていた。

僕も大人になった。東京で仕事に没頭した。重たい空の雰囲気と油とサビの匂いのする羽田や湾岸線は北九州面影を感じさせた。

東京の西の端に住んだ。二人の子にも恵まれた。仕事に忙殺されながらもなるべく自然に接する機会を作ろうとした。しかしどこに行くにも渋滞とスッキリしない淀んだ「気」のようなものが晴れてくれない。僕が子供たちに見せたいと思う物との乖離がつきまとった。

ある日、立川市にある「昭和記念公園」の花火大会へ出かけた。借りていたマンションからは玉川上水を歩いていけばすぐだ。しかしなんと途中から混雑し人が詰まって先に進めなくなった。それでも楽しみにしていた子供たちは遠くで上がる花火を肩車越しに見て「わあ、花火って小さくてかわいいね。」と言った。その時僕は北九州へ帰る事を決心した。

北九州は様変わりしていた。高塔山のロープウェイや遊園地は東京へ行く前に無くなっていたが山は整備されアジサイや樹々を中心とした公園に姿を変え、北海岸の赤岩や黒岩は広大な埋め立て地となりエコタウンと言われる事業「あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用し、最終的に廃棄物をゼロにすること(ゼロ・エミッション)を目指し、資源循環型社会の構築を図る事業」(エコタウン事業公式HP より引用)が展開されている。道路は拡張されコスモスを植え整備され、脇田には釣り公園なども造られていた。不思議と喪失感は無かった。むしろ新しく生まれ変わった印象が強い。

渡場からごんぞう小屋を経て若松駅までの南海岸はレトロなビルの景観を活かし市民の散歩コースに生まれ変わっていた。聞くと市民が声を上げ行政や企業と共に自然を取り戻そうと環境問題に取り組んだ成果だと聞く。かつての茶色い海は底まで見渡せる透明度を取り戻し大きな魚が岸壁に付いた藤壺をかじっている。休日には太公望たちの竿もでる。何よりも潮の匂いがして空が青かった。若戸大橋のエレベーターは無くなり四車線になり、平成24 年には洞海湾の下をくぐるトンネルもでき、その 6 年後には若戸大橋 もようやく無料化 にこぎつけた。

大きな煙突は相変わらずふんぞり返っているが吐き出す煙は白い雲のよう。季節や風向きによっては大陸からの黄砂や PM2.5 等で霞むことがあったり光化学スモッグ警報が発令されるそうだがかつてのようなひどさはない。しかし空き地の代わりに空き家が目立つようになってしまった。土曜夜市で賑わった銀天街もシャッター街と化している。過疎化に関してはもっと大きな単位での問題だろう。

北九州は工業都市である。
石炭景気に沸き全国から人が流れ込んできた。
時代の流れと共に石炭から鉄へと主役は移っていったが荒くれ者たちはここでの暮らしの中で様々な文化と人間性を育んでいった。

男衆は、川筋気質と熱い情熱と肉体を駆使し工業を通じて日本を元気にしている。
そんな男衆を尻に挽く北九州の女衆(おなごしゅう)。女性が活躍する街は元気がいい。まさに北九州の大きな色合いともいえる。うちの二人の娘たちも御多分に漏れずといったところか。

北九州に帰ってきたその夏、くきのうみ花火の祭典を子供たちに見せた。
家からは最初の1発目が上がってから歩いて出かけても充分堪能できる。
真上に広がり夜空を覆う大輪の花火、浴衣を着てうちわを持って、ド~ンと空気が揺れるのを楽しむ。娘たちは、一番前まで走っていき歓声をあげている。これが本当の「花火だよ」と僕が口開く前に。

「吉田磯吉親分や玉井金五郎親分から可愛がられた。」と自慢していた亡き親父が若い時分、石炭を運ぶ船の帆の支柱のてっぺんからジャックナイフで海に飛び込んでは、ごんぞう衆から喝采をうけていたそうだ。そんな飛び込んで泳げる洞海湾の時代から、鉄の街として公害に泣いた時代、それを生まれ変わらせた新しいエコの街、再生の街の象徴として洞海湾を生命の海に生まれ変わらせた北九州の人達。まさに新しい形で市民と行政と企業がスクラムを組む街は、かつて子供の頃に感じた冒険の毎日とは又違ったワクワク感がする。これこそ次の時代のモデルケースなのかもしれない。そして僕のような東京から帰ってきた人間にも再生の可能性を示してくれる。

この夏、あの小さかった僕の次女もこの街で新しい命を生んでくれた。次の世代と愛すべき街「再生の街 北九州」を 「生命の海 洞海湾」と共にこれからも見守っていきたい。

作者:浅川 三四郎さん