おでんの湯気とノスタルジー【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

私が幼稚園のときに両親が離婚し、母が再婚するまでの約十年間、祖父母の家で暮らした。祖父母の家は自宅の目と鼻の先だったため「生活圏」という意味合いでは、大きな環境の変化はなかった。

離婚を機に母は働き始め、私は妹とともに保育園へ預けられるようになった。全員お揃いの制服を着て仲良くお勉強やお歌の練習をしていた幼稚園とは異なり、保育園児はみな非常に活発で、たくましかった。楽しみにしていた給食もなくなり、送迎のバスもなくなった。幼稚園を経験した事のない妹はすぐに馴染んだようだが、当時の私はあまりの環境の変化に完全に萎縮してしまった。幼稚園の頃、風邪をこじらせても絶対に行くと言い張って泣いていた私だったが、保育園へ行くのは嫌だと毎日泣いた。自ら他の園児との間に壁をつくってしまったため、友達もできなかった。

そんな私の様子を察してか、祖父母は仕事で忙しかった母に代わり、優しく接してくれた。特に祖父は、私達姉妹をよく外へ連れて出してくれた。毎日のように散歩へ連れて行ってくれ、ひとりで自転車に乗れるようになるとサイクリングへ行った。妹が小学生に上がると、車でドライブへ行くことも増えた。

お決まりのドライブコースに、和布刈コースがあった。門司港周辺をまわり、和布刈公園にやってくる。公園の売店では名物のおでんが売っている。たまごや牛すじ、こんにゃくなどを買い込み、関門海峡を臨みながら熱々のそれを頬張る。それがこのコースの定番だった。壇ノ浦の戦いの舞台となった関門海峡。この場所で源氏と平氏が命をかけて必死に戦った。おでんの湯気に包まれながら、ぼんやりと壮大な歴史に思いを馳せると、その時の自分の悩みなど小さいことのように思え、なんとなく気持が軽くなった。大人になり、あのおでんの味を探しているが未だ出会えていない。

祖母は亡くなり、祖父とは現在絶縁状態にある。簡単に言ってしまえば、母との確執が原因だ。私や妹にとって、祖父は「いい祖父」だった。母がいない間面倒を見てくれ、ときには父親の代わりにもなってくれた。そして母からは教わることのできない、様々なことを教えてくれた。他を探しても、こんな祖父はそうそういないと思う。だが、母にとってはそういう側面ばかりではなかった。「祖父である」彼と「父である」彼。私が見た祖父と母から見た祖父は、違う顔を持っていたのだ。

二人は常に争っていたわけではないが、ともに生活をしていく中で生まれた小さな亀裂が、長い時間をかけて徐々に大きくなり、取り返しのつかないものに成長してしまった。「血がつながっている家族なんだから」と他人は言うが、血の繋がりがある者同士だからこそ、お互いに譲れないものがあるのだ。赤の他人であれば、仲違いをしてそのままきっぱり縁を切ってしまうことも、考えをあらため、お互いに歩み寄ることも、自分の心の持ちようひとつでできるものだが、家族だからこそ物事は複雑を極め、そう簡単にいかない部分もある。

祖父と会わなくなってから、もう何年になるだろうか。私は大学を卒業して上京し仕事を持ち、結婚し家族に愛犬を迎えた。それなりに充実した日々を過ごしていると思う。それでも、人生に行き詰まることはたくさんある。そのたび、祖父や祖母と過ごした日々が、あのおでんの記憶が脳裏に浮かぶ。それは無意識なのだが、おそらく、祖父母と過ごしたあの時間が、私の人生にとって大きな意味をもたらしたからなのだろう。あの頃、楽しいことばかりではなかった。父親がいないことで「うちはよそとは違う」と卑屈になったこともあった。そのせいで自分が他人にどう思われるかを心配し、人間関係を築くことを恐れ、学校生活に息が詰まりそうになることもあった。そんな時期に寄り添ってくれた祖父母には、感謝してもしきれない。

今思えば、それらの出来事は必要なことだったのかもしれない。人生に於いて多感な時期に起こった経験のひとつひとつが、今の私を形作っている。

いつか私達家族の中で起こっている問題が解決し、また祖父に会える日が来るのであれば、私はこの思いを祖父に伝えたい。そして、ありがとうと言って、あのおでんを一緒に頬張りたい。

作者:葉月 いろさん