祖父と小倉と八幡と私【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

16年前、80でこの世を去った祖父は川崎で果物屋を営んでいた。働き者であった。幼き日に可愛がってもらった記憶はあるが、共に過ごした時間のほぼすべての記憶の場所は店だった。亡くなったその日も、倒れる10分前まで働いていた。家路の途上、一服するために自転車を停めていたところで倒れ、帰らない人となってしまった。そんな祖父は21の頃、北九州にいたという。

学校の教科書で出てくる北九州といえば、まずは八幡製鉄所をはじめとする工業地域。エネルギー革命の影響を受けて炭鉱が閉山してからは機械工業中心にシフトしたと。近年の地理の教科書ではエコタウンとしての取り組みの記載もある。しかし、かつて小倉が陸軍の造兵廠が置かれるほどに要衝であったことを記しているものはない。

昨年8月、よく晴れた夏の暑かった日。多くの折り鶴に囲まれる形で、私は跡地である勝山公園の一角で手を合わせていた。74年前にこの地にいたという彼を思い出しながら。

1924年に生まれた彼は、同世代の人々と同じように先の戦争に従軍し、そしてこれも例外なく多くの友人を戦火の中に失ったと聞く。出棺の時、彼と同世代の親戚・友人が泣きながら彼に言葉をかけていた光景を今でも覚えている。何度も煙草やめろってばっか言ってごめんね、戦争でこれしか楽しみなかったんだもんね、もう大丈夫、好きなだけ吸ってね、と。予期せず最期となった一服、せめて堪能できただろうかと今なら思う。

水のある景色が好きだ。不思議と心が落ち着く。若戸大橋とその周り一帯を眺められる戸畑駅前のビルの高層階は、市内でも屈指のお気に入りの場所である。そして、船の旅も好きだ。新幹線にも飛行機にも数え切れないほど乗ってきたが、何故か船には風情を感じる。眺めていた景色で、橋の下を行き交う小さな船がいつも羨ましかった。それが例え5分の距離であろうとも。1月の仕事の休みの日に、ようやく念願叶って若松へと向かった。船の中から眺める橋も街も新鮮で、気分が高揚したのは言うまでもない。

古き良き時代にタイムスリップした感覚を味わえる若松の街は、観光で訪れるには丁度良い場所だ。万葉集の時代の大伴旅人の歌碑もあり、その歴史にも驚く。明治時代には国際貿易港としても栄えていたらしく、幾つか残されている洋館も目を惹く。大正町商店街の魚屋で頂いた刺身に舌鼓を打ちながら、ふと見かけた建物が気になって入ってみる。北九州市平和資料館。満州国の国旗、慰安所規定など、初めて見る資料も多い。小中学生に歴史を教える身としては興味深い資料の数々。そんな中、1枚の資料パネルに大きな衝撃を受ける。1945年8月8日に、八幡に大空襲があったというのだ。

1945年8月9日、小倉の地に原子爆弾が落とされる予定であったが、悪天候のために回避されたということは知っていた。戦争のこととなると口を開きたがらない祖父の代わりに、母から聞かされていた。それとともに、祖父の陸軍学校での成績が1番前後した学友の配属がそれぞれ、広島・長崎であったことも- しかし、その悪天候の一因が、その前日の八幡への大空襲であったということは、この時初めて知った。その空襲が残した煙が、翌日の小倉上空の視界を遮っていたのだと。

空襲被害の凄惨さは言うに及ばない。当時の八幡の方々に改めて手を合わせながら、その空襲がなかったら自分自身がこの世に存在することもなかったのではないかと、不謹慎ながらも思っていた。奇縁は重なるもので、その時自分が仕事で受け持っていたのは八幡地区の小中学生。小倉地区は講師が充足しているからと回されていたのだが、これも何かの運命であったのだろうか。目の前の仕事に対して頑張る理由が1つ増えた休日となった。

作者:Hit Katさん