絵具、変わる、港【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

私は高校三年間ずっと、卒業する日を迎えるのが怖かった。第一志望の大学に合格することができるのだろうかと常にもやもやしていたし、大学がどんな場所か全くイメージがつかないから、もし合格したとしても、大学生としてうまくやっていけるのか不安に思っていた。でも、それよりも。卒業後、後から思い出すほどの何か、を今得ている自信が高校生の私には無く、空っぽな時間だけが過ぎていっているのではないか、と常に怖がっていたのだった。

高校で私は美術部に所属しており、一年に一度、門司港レトロで開催される高校生を対象としたスケッチ大会に、一年生と二年生の二度参加した。(三年生は受験生なので参加はあきらめた)真夏の炎天下の下、制限時間内に門司港の好きな場所を絵具で描く。お昼ご飯の時間をまたぎ、数時間かけて一枚のスケッチを完成させる、というのは普段なかなか経験することがない。一年目は関門海峡と関門橋、そしてそこを通る船を描いた。建物を描くのは絶対に難しいから、と敢えて避けてみたもののそれでも十分難しく、全然上手く描けない。完成した絵は記憶に残らないようなありきたりなものに仕上がったし、上手とは言い難かった。完成したときは嬉しかったが、苦い気持ちが残った。
紫外線対策が甘すぎて、肌はほてって赤黒くなっており悔いた。大会の帰りに家族が迎えに来てくれて、みんなで門司港レトロを散策し、パフェを食べたことをよく覚えている。

二年目はスケッチ大会が始まるよりも早い時間に門司港に行き、港を歩き回って今日描く風景をあらかじめ探した。でも、歩いても、歩いても、描けそうな場所は見つからなかった。そこで去年と変わらず関門海峡と関門橋を選んだ。船は去年かなり苦戦したから省き、その代わり並木の木を下から見上げる構図で入れてみた。(船を描かなくて済むし、ありきたりじゃなくなるかも……)
絵は木を描くのが難しく、自分の実力不足に苦しめられた。暑さで朦朧としながら、迫る制限時間に焦る自分とは裏腹に、観光を楽しむ人々の往来と、穏やかな海――。絵を描くことを投げ出して、ゆったりとした気持ちで歩いて回りたい気持ちを抑えた。手を抜いているわけではないし、頑張って描いた、でも完成した絵は謎の策略的構図で狙っている感が自分でも嫌になって、気に入らない仕上がりとなって終わった。
ちゃんとこまめに日焼け止めを塗りなおしたし、帽子はつばが広いものを選んだし、腕はアームカバーをつけていたから今年はあまり焼けなかった。帰りに美術部の仲間と焼きカレーを食べたことをよく覚えている。

数週間後、その絵が入賞したことを知った。なんとなく嬉しかったが、なんとなく判然としない。その絵が気に入っていなかったから、その絵を見ると自分の力のなさを思い知らされるから、やっぱりどうみてもへたっぴだから――。色んな理由はある。でも門司港の美しさが、歴史が、北九州に住むひとりの人としての門司港に対する……熱量が、伝わってこなくて、薄っぺらさ、浅はかさだけが透けて見えるから………。絵が下手なら下手なりにも「気持ちで描く」くらいの気概でもっと真摯にこの大会に挑めばよかったと後悔した。

そんなことがあって今、私は大学生になっている。ルールで雁字搦めにされていた高校生活、朝課外のある毎日、なんとなくずっと息苦しかったから、高校生活に戻りたいとは思わない。でも――たまにふっと思い出す。
炎天下の下、色紙に必死でスケッチをする私を、熱中症になっていないか見回りに来てくれた先生たち。
頑張った後に、頬張った一口目。
友達と「あの日ほんと暑かったよね」「私なんかくっきり手首、腕時計焼けしちゃったもん」美術室でお菓子を食べながら他愛もない会話をしたことも。

部屋にはみんながいた。絵を描きながら笑っているみんな、そこには学校内の厳しい秩序はなくやわらかい空気が流れている。お菓子のにおい。私は本気で絵が上手くなりたくてここにいるわけじゃない、賞状が欲しくてここにいるわけでもない、なにか功績を得たくてここにいるわけでも、将来のためにという義務感に縛られているわけでもない。ただ――。

後から思い出して大切にできる風景が一つだけでも、あってよかった。

「みて、夕焼けがきれいだね」「はい! すごく綺麗です」
あの日先生と美術室の片隅でみた淡いグラデーションは、あの日門司港スケッチ大会の帰りの電車でぼんやりとみた空の色と似ていた。私は「上手に」絵を描くことに縛られすぎていたのかもしれない。本当の美しさは、その「もの」に誰といつどこで、という背景と、日々積み重なって変わっていく歴史の重みと、そしてどう感じるかにかかっている。ある意味自分次第であり、実体が本来はないものなのかもしれない。門司港レトロ、今なら別の視点で、別の描き方ができるような気がする。そんなことを、大学生の私はあの日の空のグラデーションを思い出しながら考えている。

日が沈んでいく、美術室の光だけが輝きを増していく。

作者:下田 京香さん