海があるということ【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

ああ、あと少しだ。車窓が真っ暗になり、海の下に潜り始めると、背もたれを勢いよく元の位置に戻した。到着を告げる音楽が心を急かす。そんなに早く立ち上がらなくても間に合うのだけど、どうしても気持ちが焦り先陣を切ってデッキに向かってしまう。降り口は左側だな。パンパンに詰め込んだスーツケースの車輪に足を引っ掛けながらも、ポールポジションを確保する。扉が開くと、湿り気のある空気が入ってくる。待ってましたという高揚感が押し寄せる。ああ、九州のにおい、のような気がする。重たいコロコロを無理して持ち上げて階段を降りていくと白く眩しい新幹線のコンコースが出迎えてくれる。行き交う人の間を縫うように在来線乗り換え口へとぐんぐん進む。スムーズに切符を挿入し、小倉駅中央改札口へと合流する。7、8番ホームの電子掲示板を確認し、念のため他のホームの掲示板に門司港行きが無いかも遠目に確認する。こんなに急いだけれど、在来線の発車時刻まではあと15分もある。今度は階段ではなくエスカレーターでホームへ向かう。

「47分発に乗るよ」父に手短にメールを送り、先頭車両が停まるホームの一番端へと進む。門司港駅は終着駅なので、改札に最短で到着するには先頭車両に乗るのが鉄則だ。

おばちゃん二人が楽しげに話している。「孫がもう大変やけねえ。」「いやあんた、かわいいやないね。」ホームに漂う肉うどんの甘い匂いに急にお腹が空く。でもこの荷物の多さだし、女性一人だし、この時間で食べ終わらないしなーなどと考えていたら、電車が入ってくるアナウンスが流れてきた。
いちばん最初に乗り込んで目指すのは進行方向に向かって左の窓側席。窓の外が一番大きく見える席をいつも確保する。しっかり陣取って窓の日除けを少し上に上げる。

ゆっくり動き出した電車は懐かしい景色を映しながらスピードを上げていく。まだかまだかと首を伸ばして待つこと数分。その先に見え始めるのは、海。関門海峡の海。わたしの海。その青さが目に入ると、私の心と体は一気に弛緩する。ああよかった。海はちゃんとある。海をしばらく目にしていないと、時々本当に海があるのか心配になってくる。頭で遠くに海があることは分かっているのだけど、でもこの目で見られないと、どこか息苦しい。18年間門司港で生きてきた私は、海が近くに無い場所に住んでいると閉じ込められている感じがしてくる。海が見えた今、もう何も急がなくていい。

半年ぶりの海は青緑で、少し波が立っている。元気のある海だ。空の雲は思い思いに浮かんでいる。空が広いことに気づく。縦長い貨物船が多くのコンテナを載せて浮かんでいる。私の発注したコンテナもこの海峡を通るのかな。潮のにおいを嗅ぎたくて息を吸ってしまう。

電車が門司駅まで来ると、この辺りはマンションが多く一旦視界はさえぎられる。

住宅街や工場を抜けると小森江駅が近づいてくる。そしてまた広く海が見える。左側の空は少しだけ赤らみ始めている。右手には風師山が青々と迫る。あの青さの中で高校時代、走り、漢詩を暗唱したことを思い出す。関門海峡の海面はこんなに上にあっただろうか。199号線に波が上がってしまううんじゃないかというくらい迫ってきている。でもそれがなぜか嬉しい。

ごとんごとんという音の間隔がだんだん長くなっていく。駅に停まっている他の電車が見えてくる。頬が少し緩む。「着いたよ」という父のメール。他の人は徐々に荷物を整理して先頭のドアへ向かう。新幹線ではあれほど先陣を切って席を立っていた私はここでは完全に止まるまで動きたくない。完全に電車が静止して、深呼吸してから立ち上がる。

変わらない門司港駅のホーム。終着駅で、この後もうどこにも進んで行かないから、この駅は帰ってきた私をしっかり受け止めてくれる気がする。関門海峡も門司港と下関の間にネットのような関門橋があって、帰ってきた私をすくい取ってくれるような気がする。ゆっくりと踏みしめながら開札へと進む。ロータリーの方へ進むと父の車が見える。そうするとちょっとだけ足早になる。ただいま。

作者:あべ みほさん