四海の人と手をとりて【エッセイコンテスト 入選作品】 | キタキュースタイル【北九州市の街と人の魅力を発信するローカルWebメディア】

四海の人と手をとりて【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

|バスに乗る|
 意を決して、黒崎方面行きのバスに乗った。定刻より二分遅れでやって来たのは22番系統のバスだった。かつては小倉と黒崎を結ぶメインの路線だったが、平成四年に廃止となった路面電車の代行バスの後裔である1番系統にその座を奪われ、また、数年前には、途中からショッピングモールへ向かう路線が新設されたことにより、最近はめっきり本数が減ってしまった路線である。そう言えば、北九州市内を東西に路面電車が走っていたこと自体、憶えている人も年々少なくなっていく。
 ともあれ、乗り慣れたバスだ。座る席もおおよそ決まっている。窓が右側にないと落ち着かないのか、いつも無意識のうちに右側の列を選んでいる。誰かが座っていない限り、そこと決めている右列の前から四席目が空いていた。しかしながら「ラッキー♪」と思えるような状況ではない。なぜなら、周囲を見渡すと自分以外に乗客は二人。車内は静まり返っている。急に、罪悪感とも背徳感ともつかぬ思いが胸を塞いだ。

|春の儀式|
 コロナ禍によって学校が閉じられて既にひと月が経過した。来週にはいよいよ緊急事態宣言が福岡県にも発令されることが報じられている。外出は極力自粛しなければならない。だが、宣言が出される前にどうしても行っておきたい場所がある。しかし、明らかに不要不急の用件なのだ。あれこれ逡巡しながらも、明日から雨になるという天気予報に背中を押されるように、ようやく家を出て来たのだった。
 バスは小倉と八幡の境を越え、七条あたりにさしかかる。まずは最初のタスクだ。バスの窓の外に目を凝らす。四つ角を過ぎると視界が開け、そこには古歌の「見渡せばただひとむらの霞」という句を思い起こさせる春が広がっていた。ゆるやかなカーブに沿ってバスは進む。本当に霞の中に町が浮かんでいるかのようだ。今、目に映る景色に果たして桜の木は何本あるのか。板櫃川沿いに、街路樹に、公園に、住宅の庭に、これでもかと言わんばかりに満開の桜が大きく膨らんでいる。なかでも、美術館へと続く小高い丘の中腹に、小洒落たタウンハウスのような共同住宅が連なっているが、それを半ば覆い隠すように横一文字に並ぶ桜は圧巻だ。下から見上げると大きな桜の船にタウンハウスが乗っているかのように見える。八幡高見の街区全体が満開のソメイヨシノに埋め尽くされ、それこそ薄桜色に照り映えている。そう。これが見たかったのだ。
 高見と言えば、かつては八幡製鉄所の幹部級の職員の官舎が建ち並び、当時から桜の名所として知られていた。時移り、古い官舎群が取り壊され、区画整理が行われるなかで、桜並木は保存され、桜を活かした新たな街づくりが行われたと聞く。都市計画に携わった人々の意図は十分に達せられたと言えよう。
 七条の交差点から三条の高見神社の参道入口あたりまで、時間にしてわずか二分足らず、バスの窓から眺める高見の桜は絶景である。そしてこれが、いつの間にか恒例となった私の「花見」のプロローグなのである。密かに「春の儀式」と私は呼んでいる。

|息を呑む桜の並木|
 中央二丁目でバスを降り、91番系統に乗り換える。座席は右列。今度は一段高くなっている後方に座る。もうお気づきの方も居よう。向かう先は祇園の「さくら通り」である。高見の桜が遠景なら、祇園の桜は至近で微細である。長い坂道の真ん中に、道路の上下線を区切るかのように祇園一丁目から三丁目まで、皿倉の山に向かってまっすぐに桜並木が続く。バスの窓を開ければ、実際に手が届く距離で桜の花びらの一枚一枚を眺めることができる。バスの座席が右側後方でなければならないのはこのためである。
 桜を見上げていると息が苦しくなると口にして笑われたことがあるが、実際、満開の桜には人に呼吸を忘れさせるほどの圧倒的な美しさがある。祇園の桜は古木が多いため、幹も太く、枝ぶりも見事である。
 瞬きするのを惜しむかのように咲き誇る木々の姿を目に焼き付けていると、バスはゆっくりと右折して祇園三丁目に到着した。何とも呆気ないが、徒歩生活者の「花見」の第二行程はここまでである。普段ならここから、今、登ってきた「さくら通り」をゆっくり歩いて下り、途中、右に曲がって「牡羊座の道」の桜並木をくぐり、つい数年前までは村野藤吾設計による瀟洒な旧八幡図書館が建っていた道を抜け、尾倉町まで途切れ目なく続く桜の一本ずつに来年の再会を約束しながら、私の毎年の「花見」は終わる。だが、今日はまだ日は高い。ここからもう少し上まで登ってみようと思い立った。

|あと何回…|
 いつからこんなに桜に魅せられるようになったのか、明確には思い出せないが、それほど旧いことではない。人生の半ばを過ぎ、あと何回この美しい光景を目にすることができるだろうかという思いが脳裏をよぎって以来、桜への執着が次第に強くなっていったように思う。毎年、桜を見ることで、自分の生きている証立てをしているような気もする。

 若い頃は桜を見ないままに過ごす春も多かった。
   垂れ込めて 春の行方も 知らぬ間に 待ちし桜も うつろひにけり

藤原因香のこの歌の気分そのままに、眼前にない桜を想像しつつ、逝く春を惜しむ思いに一人浸ることの方が数等上であるかのような気すらしていた。もっとも、連れ立って花を見に出掛けることを厭い、桜は一人で眺めるべきものだという凝り固まった観念が培われた端緒は、あるいは高校時代に読んだ『徒然草』の「花は盛りに」の一節が尾を引いているのかも知れない。
 ともあれ、暦が還った今年、同じ『古今集』からもう一首引くなら、陳腐ではあるが、

   年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば もの思ひもなし

藤原良房のこの歌になろうか。日常の屈託をすべて忘れさせてくれる桜を見たい。難しいことは考えず、ただひたすらに今年の花を愛でたい。限られた桜の花との再会を素直に喜びたい。そんな気持ちに至っている自分を発見した。

|坂を登る|
 龍潜寺を右に見ながら、やや急勾配の坂道を登る。坂とともに暮らすのが八幡の習いとはいえ、この坂を毎日上り下りするのはやはり難儀だろう。花尾の交差点を右折して、静まりかえった八幡中央高校の校舎を見下ろしながら元城町方面へ。このあたりにも桜は咲いているが、若葉交じりの様子からするとヤマザクラ系なのだろう。十五分ほど歩いて、ようやく都市高速をまたぐ陸橋に着いた。
 やはりこの高さからの見晴らしはよい。皿倉山からの眺めが「新日本三大夜景」に指定されたのはたしか五年ほど前だが、昼間の眺望も十分に見応えがある。高塔山が見える。若戸大橋が見える。その下には今や川のように狭くなってしまった洞海湾と、これを囲むように建ち並ぶ工場群。左に目を転じれば、かつて宇宙戦艦にたとえられたデパートと黒崎の繁華街。気味の悪いほど静かな都市高速の上、一台の車も通らない跨線橋に立って、これらの風景を眺めていると、突然、中学校の校歌を思い出した。予期せぬ嗚咽がこみ上げてきた。

|遺された校歌|
 校歌を覚えているかという話題になったのは、つい先日、卒業以来、四十年ぶりに出会った小中学校の同級生との会話の中でのことである。小学校だけでなく中学のも高校のも歌えると答えると、同級生は呆れ顔で苦笑していた。
 「でも、考えてみると、もう校歌しか残っとらんのよね」
と同級生は呟きながら、掌を見つめていた。
 通っていた小学校も中学校も、もはや跡形もない。少子化の影響で統廃合され、小学校は取り壊されて更地に、中学校の敷地には新たに統合された小学校の校舎が建っている。時代の役割を終えたものはこうして静かに消えていくのだろう。そして、帰るべき母校を二つとも失ってしまった卒業生に遺されたものはただ、記憶の中の校舎の姿と、忘れ去られようとしている校歌のみなのである。
 鉄の町と呼ばれた八幡で過ごしたのは、小中高の十二年と重なる。この町では、どこの学校の校歌にも、帆柱の山並みや洞海湾などの自然の景物とともに「夜空を焦がす熔鉱炉」「鉄の都」「鎚の響き」といった、八幡の町が製鉄で殷賑を極めていた時代を反映するフレーズが鏤められていたと聞く。
 今は既にない母校の中学校の校歌が作られたのは戦後まもなくの頃だろう。その三番の歌詞に、
 「四海の人と手をとりて/平和日本の暁の鐘/鳴らせ母校の丘の上」
とあるのは、第二次世界大戦の戦火を経て、新憲法の掲げた平和主義と国際協調主義の理想に昂揚する当時の人々の思いを、強く反映したものだったに相違ない。

|八月八日|
 この山の頂上近くに「八」の字の光が灯されるのは毎年八月八日の夜である。通称、八文字焼。終戦まであと一週間となった昭和二十年八月八日の朝、米軍機B29が襲来し、八幡の町を焼いた。二千五百人余が死傷し、一万四千戸を超える家が灰燼に帰した。被災人口は五万余に及んだという。その慰霊を目的として昭和四十九年に始まった行事だ。
 翌九日には、広島に次いで新型爆弾、すなわち原爆が長崎に投下された。一瞬にして、当時の長崎の人口の四分の一にあたる七万四千余の命が奪われ、建物も三分の一が全焼・全半壊するに及んだ。これによって敗戦は決定的となるのだが、この日の原爆投下の第一目標は、実は小倉の陸軍造兵廠であったことが戦後明らかとなった。小倉上空が視界不良のため急遽、長崎に目標が変更されたのである。その視界不良の原因とされるのが前日の八幡大空襲の煙であったことは市民に広く知られている。北九州は原爆の惨禍と紙一重のところにあったのである。
 製鉄所と造兵廠。軍需に深く関わった北九州は、その分、戦争の痛手も極めて大きかった。だからこそ、新しい時代の幕開けに、新たな校歌に込めた人々の願いは「平和日本」の建設だったのである。
 幸いにして、この七十五年間、日本は直接的に他国と干戈を交えることはなかった。ひとえにそれは、さきの大戦で三百万余の人々を死に追いやったことへの深い悲しみと悔いがそこに横たわっているからであろう。新憲法の平和主義は、日本人の実感に根ざすものだったのである。
 ところが今、その平和主義が大きく揺らいでいる。かつて地方の中学校の校歌にまで謳われた憲法の理念をいとも簡単に打ち棄てようとする荒っぽい政治や、国家主義体制への回帰を目論む歴史修正主義がまかり通り、差別や排外主義がはびこる社会の状況を、校歌制定当時の人々はいかに見ていることだろう。
 歌う人がいなくなれば校歌は忘れ去られる。だが、あの校歌に込められた平和憲法の理念が、時代の役割を終えたとはとても思えない。とすれば、せめて歌い継いでいくことが、覚えている者の使命と言えるのではあるまいか。
 そしてまた、桜の花を、潔く散ることを慫慂する軍歌に織り込むような醜悪愚劣なまねは二度とさせてはならないのと強く思うのだ。

|復興道路|
 小一時間ばかり、そんなことを考えつつ、八幡の町を飽きもせず眺めていた。やや日が翳って来た。風もまだいささか冷たい。
 それにしても、と思う。日本人の復元力にはやはり目を見張るものがある。今、見下ろしていた町並みも、七十五年前には焼け野原となっていたのだ。それから一週間で終戦である。空襲や焼夷弾に怯えることはなくなったかも知れないが、終戦直後の八幡の人々は途方に暮れるしかなかったことと思う。それが十年後には、政府をして「もはや戦後ではない」と言わしめるほどの復興を日本全体が遂げていく。その原動力となったのは、取りも直さず、この八幡の鉄鋼生産であった。北九州の生産力が戦後復興に果たした役割は大きい。そう言えば、子どもの頃、八幡駅の辺りから今の戸畑バイパスに通じる道を「復興道路」と呼んでいたのを唐突に思い出した。
 生地の門司から八幡に移ってきたのは昭和四十二年だが、当時、母親が驚いていたことがある。枝光の山のふもと近くに住んでいたのだが、午前十時を過ぎると、申し合わせたかのように山の上から主婦たちが列をなして下りてくるというのである。何事かと思って見ていると、どうやらその列は枝光の商店街へ向けて買い物に出掛けていく主婦たちの姿であったらしい。それまで門司港でのんびり生活していた母親にはよほどの衝撃だったのだろう。「八幡の人は朝から買い物に出掛けるのか」と驚嘆していた。
 今は見る影とてないが、たしかにあの頃の商店街はいつも混みあっていた。八幡の町が活況を呈していた時期の最後にあたるのだろう。人も町もバイタリティにあふれていた。復興を支えたのは、こうした北九州の人々の活力と情熱であったことに改めて思いを馳せつつ、坂を下る。

|公害の町から環境都市へ|
 高度経済成長を経て、再び、苦難が北九州を襲う。公害である。大気汚染、水質汚濁、化学物質による土壌汚染等、これらが一斉に社会問題化したのも昭和四十年代だった。
 いわゆる重厚長大産業が集積していた北九州ではその被害も大きく、「七色の煙」から降下煤塵と呼ばれるススが八幡や戸畑の町には日常的に降り注いでいた。窓の桟は一日に二度拭いても、絶えず黒い粒子状のススが降り積み、洗濯物も外にはなかなか干せなかった。小学校の同級生には「小児ぜんそく」の症状が悪化したため、余儀なく市内の空気のよい地区の小学校へ「疎開」する子どももいた。黒褐色に染まった洞海湾は、大腸菌すら生存できない「死の海」と呼ばれ、紫川の下流の水は澱み、夏場は強い悪臭を放っていた。今現在の状況からはとても考えられないほど、北九州は汚れていたのである。
 そのような状況からの脱却を訴える声は、まず戸畑の主婦たちから上がり、市民運動へと発展していく。その声に押されるように企業も行政も公害対策に真剣に取り組むこととなる。時代は、それまでの北九州の在り方に改善を促したのである。また、折からの産業構造の変化の波も、結果としてこれに味方した。たしかに、数度にわたる「鉄冷え」は、雇用をはじめ、北九州の経済に深刻な打撃をもたらしたことは間違いない。町は確実に活力を失い、衰退していった。しかしこの時、それを逆手にとって、それまでの企業城下町を脱し、住む人にとって本当に暮らしやすい町とは何かを、行政も市民も企業も考え始めたのはまさに僥倖であったと思う。
 北九州の新たな武器は、公害を克服する過程で培ってきた環境技術であった。加えて、この町にはものづくりの気風も、高度な技術も蓄積されている。これらをもとに「環境」の産業化を図ることで衰退に歯止めをかけ、新たな発展の方策を探ろうとしたのである。平成十六年には「環境首都」をめざすことを内外に宣言し、平成二十三年には政府より「環境未来都市」の認定を受けた。今まさにトレンドとなっている「SDGs」、すなわち「持続可能な開発目標」の考え方も、十五年前の「環境首都宣言」のなかですでに提唱されている。北九州は一歩も二歩も他に先んじていたのである。そして、平成の三十年間は、言わば、北九州の生まれ変わりのための歳月であったと言える。
 こう考えてみると、北九州はいかに困難な状況に直面しても、フレキシブルに「変化する力」によって、それを克服していく知恵と逞しさを備えた懐の深い町であると言えよう。それもまた、この町の魅力の一つに数え上げることができるだろう。

|今だけ金だけ自分だけ|
 しかし、今、北九州そして日本は、「変化する力」だけでは解決のつかない問題に直面している。西暦二〇〇〇年頃から、グローバル・スタンダードという語が声高に叫ばれるようになり、あっという間に、世界は新自由主義経済に呑み込まれてしまった。グローバル・スタンダードと言えば聞こえはよいが、要は、商取引にアメリカのルールを採用することであり、新自由主義とは「Winner takes all」という弱肉強食の経済システムを容認し、金儲けの自由を認めるが、結果はあくまで自己責任に帰するとする考え方である。もっと端的に言えば、「今だけ、金だけ、自分だけ」の世の中を認めるということである。
 刹那主義、拝金主義、利己主義の蔓延は資本主義そのものを変質させ、一部の持てる者と大多数の持たざる者とに社会を分断し、同時に、深刻な貧困問題を引き起こしている。
 勝者総取りの新自由主義は弱者を救わない。この現実を私たちはこの二十年、いやと言うほど見てきたはずだ。やはり路線を転換すべき時が来ていると思う。
 もとより、経済的、物質的に充たされることだけが人間の「豊かさ」ではない。人は、精神的にも充たされて初めて、真の「豊かさ」を実感できるのだ。精神的に充たされるとはどういうことか。それは「人が人として大切にされている」ことを実感することだと私は考える。平等であること。公平であること。命の安全が保障されること。将来に希望が持てること。多様性が認められること。人間としてのプライドが保たれること。これらが保障されるのが真の豊かな社会なのだと思う。
 一方、今や私たちの暮らしはすべて世界とつながっている。地球上のすべての人々と「共生」していくのだという明確な意識が必要となる。さきに紹介した校歌の一節を借りれば、「四海の人と手をとりあって生きる」ことが求められるのだ。さらにまた、私たちの今の生活は未来ともつながっている。地球環境の保全は、私たちのためばかりでなく、未来の世代の豊かさをも大きく左右する。まさに持続可能な社会の構築が急務なのだ。
 「SDGs」は単なる政策課題ではなく、一種の「哲学」だと私は考えている。人としてどう生きるかが問われるからである。さきにも述べたが、北九州市はこの問題に早くから取り組んできた。とすれば、北九州市民が率先して「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義からの脱却を世に訴え、持続可能な社会づくりのトップランナーとなるべき時が来たのではないかと私は考えている。

|この町で生を全うする|
 生まれてこの方、北九州を出たい、他所で暮らしてみたいと思ったことは一度とてない。それゆえに若い頃は、進取の気性に欠ける、冒険心が足りない、臆病すぎる、独立心を持て等々、からかい半分ながらも、さまざまに批判を受けたことも一再ならずある。
 しかし二十歳の頃の私はすでに、自分を育ててくれた北九州に並々ならぬ恩義を感じていた。いささか奇異に思われるかも知れないが、個性なり、特性なり、興味・関心のありようなり、今の「自分」を形づくる上で北九州という土地が果たした役割は、人からの影響と同等、あるいはそれ以上に大きなものがあると思っていたのである。もしも私が他所の町で生まれ育ったとしたら、今の自分はおそらく存在しない。とすれば、北九州は私のアイデンティティそのものではないかと思っていたのである。
 愛国心はあいにく持ち合わせていないが、愛郷心は誰にも負けない。それゆえ、この町のために何か貢献したい。この町で生きる人の役に立ちたい。それが人生の目標となった。幸い、教育現場に職を得て、四半世紀、この町の子どもたちを教えることに注力することができたのは望外の喜びであった。
 還暦。人生の四分の三はすでに過ぎ去ったことになる。残された時間はどんなに多く見積もっても、ざっと二十年。この時間で自分にできることは何か。それを模索して半年が過ぎた。一つの答えとして「書く」ということに思い至った。これまでの人生は、言わばインプットの六十年であった。残りの日々はアウトプットする時間に充てたいと思う。テーマはただ一つ。北九州である。そのささやかな宣言として、まずはこの文章を著した。
 この町で生まれ、この町で育ち、この町で学び、この町で働き、そして、愛するこの町を綴って死んでいく。実人生はさほど恵まれたものではなかったにせよ、これ以上の幸福はあるまいと思っている。 (了)

作者:前川 暁さん