エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品
若松区の明治町銀天街の初売りは人がすれ違うのもやっとの賑わい。ジーンズを割引で買うのが毎年の常だった。新しいジーンズを履くたびにその年が明けた実感がした。
そんな商店街も地方都市の例外ではなく今やシャッター通り。最近は商店ではなく、マンションが建設中とのことで、それはそれで嬉しい限りだ。
そんな商店街に小学生の頃風変わりな人が現れるとの噂があった。
背の高い変な帽子をかぶった老人。
背の高いハーフとミニスカートのアベック。
帽子を見たらラッキー、アベックを見たらアンラッキーとの都市伝説が生まれるほどだった。
そう帽子は俳優の天本英世さん、アベックは鮎川誠さんとシーナさんだったのだ。
天本さんは僕らがヒーロー仮面ライダーの最大の敵役死神博士だったが、漂うインテリジェンスで小学生をしてラッキーと言わしめたのではないだろうか。
それに引き換え鮎川さんとシーナさんはロック・ファッションと言う当時では異質極まりがない。まず鮎川さんはテレビでしか見たこともない長身のハーフ。シーナさんはロックの香りしかない姿だった。好奇心半分、未知との遭遇半分のアンラッキーだったのかも知れない。
しかし、ある時天本さんは相変わらずゲタとユダヤ帽で現れていたのだが 、2人は忽然と街から姿を消した。
2人が居なくなった話題も下火の小学6年の秋頃街中にあのアベックのポスターが張り巡らされる事件があった。
「涙のハイウェイ」でシーナ&ザ・ロケッツがレコード・デビューしたと言うのだ。
あのアンラッキーのアベックが!
次の年にはスネークマンショーのアルバムに「レモンティー」が収録。我らがYMOのプロデュースで「真空パック」を発売し、シングルカットされた「YOU MAY DREAM」が大ヒットを記録する。あれよあれよという間にスターダムにのし上がったのだ。
後に知るのだが、若松にいた頃は双子が産まれた幸福も束の間、サンハウスが解散し収入を絶たれ、シーナさんの実家に4人で転がり込んでいた時期だったのだ。
しかし、シーナさんの父親に「東京で勝負してこい!」と背中を押され上京し、シナロケが結成される。そんな夢物語のまさに萌芽期だったのだ。
僕はと言えば中学、高校と進学してルースターズに出会うころ、やっとロックが好きになり、BOXとかin&outなどのライブハウスに赤い橋を渡り行くようになった。
あれから40年。
僕は福岡の大学を卒業後、上京して東京で働いている。
ある帰省の際、福岡で居酒屋を営む大学の先輩から1枚のMDを聞かされた。
「よかやろー」と言われたが、僕にはブルーハーツとジュン・スカイ・ウォーカーズを足して3か4で割ったバンドにしか聞こえなかった。
「こいつらが東京でライブをやりたいっちゅうけん仕切ってやらんや?」と無茶振りをされる。クラブの10こ上の先輩で元バイトの雇い主。
白いものも黒と言われたら黒としか発言出来ない人間関係。
仕方なしに、当時通っていた伝説の店南青山レッドシューズのオーナー門野久志さんに相談するしかなかった。
めんたいロック好きの門野さんは二つ返事でOK!
そう、ここから今年で18年ほど続いている「豚骨ロック」が始まるのである。
そのきっかけを作ったブルハとジュンスカを足して3か4で割ったバンドはこのライブを機に上京。数年後「豚骨ピストンズ」としてメジャーデビュー。アニメ「イナズマイブン」の主題歌を歌いヒットした。
そんな豚骨ロックもピストンズ卒業とともにやめようかと思ったが、「僕らはどうなるんですか!」と目の前でメジャー・デビューを目撃したものだから他のバンドが継続を望む。
仕方なくやるのも本意でないので、子供の頃好きだったバンドの人たちを呼んで演奏してもらう事を楽しみに続けてみた。
サンハウス、ルースターズ、モッズ、ロッカーズ、ARB、アンジー、アクシデンツ、ヒートウェイブ・・・。
めんたいロックと言われるバンドに在籍していた人々に声をかけては出演してもらった。
シナロケはドラムの川島さんが福岡在住のため呼ぶと交通費もかかるのでトークで鮎川さんとシーナさんに来てもらった。
リハーサルの時、シーナさんに「若松の宮脇です!」と挨拶すると、
「ポンプ屋ね?」
と聞いてきた。
「それは祖父です。」
「うちの父と仲よかったんよ!」
それ以来、レッドシューズで出会ったり、ライブで挨拶をさせてもらうたびに「若松!」とか「ポンプ屋」とか呼びかけてくれた。
僕も出来るだけライブに行ってみた。
あのアンラッキーの2人のライブは僕にとってハッピー・ハウスとなった。
しかし、後年喉のポリープの手術の後も声が戻らず心配していた。
2014年9月13日日比谷野外音楽堂には豚骨ロックの卒業生らと大勢で観に行った。
虫の知らせでもあったのだろうか。
終演後の楽屋にも打ち上げにもシーナさんの姿がなくもちろん「若松」とか「ポンプ屋」とか声をかけられる事もなかった。
翌年の最初の豚骨ロックは2月14日。
レッドシューズでリハーサルをしている時に、携帯電話が鳴った。
先輩の学芸部の記者だった。
「シーナが死んだらしいけど、裏取れる家族の番号知ってる?」
彼はルーティンで何百人の死亡の裏を取って記事を書いてきたのだろうか。
マネージャーで娘の純子さんに確認を取ると彼女の電話番号を彼に伝える。
門野さんも早めに店にきて訃報を確認する。
みんなで献杯を上げ「シーナさんらしいね、バレンタインデーに亡くなるなんて。忘れられないよ」と語りあった。
多くのファンが集まった葬儀、4月7日シーナの日、鮎川さんの誕生日ライブ、フジロックなど慌ただしく時が駆け抜けた。
3人になったシナロケを何度も観に行った。
偶然、環八を自転車で走っている途中、クロスFMが作ったラジオドキュメンタリーでシーナさんの追悼番組を聞いた。
その後、NHKで「You May Dream ~ユーメイ ドリーム」が放映された。
先日もYouTubeに上がっているローカル局の再現フィルムを見た。
何度繰り返しても2人の生き方に魅了され涙が出た。
あの若松の商店街を2人で歩いていた時が、2人の人生の最もしゃがんでいた時期だった。
しゃがみきったときに「東京で勝負してこい!」と言うシーナさんの父の言葉が弾みになって一気に階段を駆け上がっていったのだろう。
「夢はかなう」
「YOU MAY DREAM」を歌う時必ずシーナさんがMCで言っていたこと。
そう、僕もいくつかの夢をかなえてきてここにいる。
それはまるで小学校の時に会った商店街から2人の背中を追うように上京して。
遠くのこの街から、生まれた街をよくよく振り返るとき、あの商店街から僕の人生は一本の道となってここに続いているのだと思う時がある。
この道はあともう少し先まで続いている。
夢がかなうと信じてこれからも生きていこう。
そう、今日は7月4日、コロナウイルスで4月7日から延期になった「シーナの日」の振替公演の日であった。
作者:宮脇 祐介さん
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