エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品
1.めがね橋の洗礼
それというのも、すべては河内(かわち)貯水池に架かる赤い橋のせいだった。
旅のガイドブックで長崎のめがね橋を初めて見たとき、それが自分の中にあるめがね橋のイメージと大きくかけ離れたものだったせいで、ひどく戸惑ったことを覚えている。石造りの二連アーチ橋を、なぜめがね橋と呼ぶのか、1ミリも腑に落ちなかったのだ。これのどこが、めがね橋なんだ、と。
私の目に、その姿は少しもめがねっぽく映らなかった。
それがいつの事だったのか、正確なことは忘れてしまったけれど、たぶん小学生か中学生の頃だったと思う。今にして振り返れば、いささか視野狭窄な、独りよがりな言い草(もちろん、口に出して言ったわけではないけれど)に恥ずかしくなるし、その時の自分をなだめたくもなる。きっとそこまで言われる筋合いはない、と(長崎の)めがね橋の立場なら、抗議の一つも訴えたい気持ちだっただろう。
けれど、その一方で、まあまあ、そんなに目くじらを立てないでやってください、と弁明したい気持ちがふつふつと湧き上がるのも確かなのだ。いやいや、なにしろ強烈なめがね橋が地元にありまして…。そもそもあの橋と出会わなければ、幼い日の私が長崎のめがね橋に異議を唱えることも、腹を立てることもなかったのですから、と。どうか勘弁してください、と。
その赤い橋は、南河内橋という。板櫃(いたびつ)川水系の大蔵川の上流に広がる河内貯水池の奥まった山間に架かる橋だ。
しかも、ただの橋ではない。辺鄙なダム湖には不釣り合いな、見るからに頑丈そうな鉄橋なのだ。まるで何かの理由で幻となった鉄道計画のために建設された鉄橋のようにも見えるし、巨費を投じてつくられた映画のセットの名残のように見えなくもない。
しかも、なにしろ赤い。南河内橋の威容は、貯水池をぐるりと縁どる山肌の緑と深いコントラストを生み出し、幼い私の心に強烈な足跡を残した。まだ路線バスが河内貯水池沿いの道路を走っていた頃、私はそのバスの車窓から河内貯水池の景色をよく眺めていた。父に連れられて、尺岳や福智山へ田代(たしろ)の登山口から登るのが目的で、年に数回は通っていたからだ。
車窓から見えるものと言えば河内貯水池の風景ばかりなのだから、それを黙って眺めるほかにすることがなかったとも言えるが、それでも河内小学校の前を過ぎ、くねくねした短い区間を抜けて、突如開けた視界の中に飛び込んでくる赤く、頑丈そうな鉄橋の堂々たる容姿を目の当たりにすると、訳もなく全身に電気が走り、窓ガラスに額をくっつけるようにしてその姿を目で追い続けたものだった。バスは橋を渡らずに貯水池沿いの道路を走る。しばらくすると今度は橋を横から眺める格好になった。すると、その形姿は西洋の仮面舞踏会で人々がつけるようなマスカレード(仮面)のような装いに転じる。巨大なふたつの眼(まなこ)がこっちをジッと見つめているように感じられ、なんだか恐ろしい気持ちにもなりかけたのだけれど、それでも私の目はその巨大なめがねに吸い寄せられたままだった。車窓からその姿が消えるまでずっと、食い入るように眺めていたものだ。それは実に鮮烈な体験だった。
そのバスの中で、父は「あれはめがね橋だ」と私に説明したし(もし私が記憶を都合よく改ざんしていなければ)、同級生との会話でも、河内貯水池の赤い橋はいつも「めがね橋」と呼ばれた。だから、南河内橋は私の中でめがね橋の代名詞となり、めがね橋は南河内橋の姿で定義されることになった。
長崎の有名なめがね橋を見たときに、それが私の抱くめがね橋のイメージとどれほどかけ離れたものだったか、これで少しは納得していただけるのではないか、と思う。後に、河内貯水池には本来のめがね橋である中河内橋(河内小学校近くに架かる)があることを教えられたが、その橋は長崎様式のめがね橋だった。もちろんその時も、これのどこがめがね橋なんだ、と私が心の中で首を傾げたことは言うまでもない。
それもこれも、すべては河内貯水池に架かるあの赤い、南河内橋のせいなのだ。
2.橋をめぐるミステリー
そのめがね橋こと、南河内橋のことがひどく気になるようになったのは、ここ数年のこと。それというのも、私の亡くなったおじと少なからず関係がある。あるいは関係がないのかもしれないが、私の中ではある種のつながりを感じていると言ったほうが事実に近いのかもしれない。それは南河内橋をめぐる歴史の謎を解く旅にも通じている。
あるとき、仕事の関係から河内貯水の地のことを調べたことがある。調べると言ってもウェブサイトを閲覧したり、手元にある地域関係の資料や書籍に当たったりしただけの話だけれど。
すると、南河内橋は「わが国に現存する唯一のレンティキュラートラス橋」*1であり、その原型は米国ペンシルベニア州ピッツバーグに架かるスミスフィールド・ストリート橋ではないか、という菅和彦氏の指摘にめぐり逢った。それを読んだとき、私の中で南河内橋に対する新たな興味が沸き起こった。というのも、私のおじがピッツバーグ近郊に暮らしており、子どもの頃から親しみを覚えていた都市だったからだ。
レンティキュラートラス形式とは、「レンズ型に鋼材を組み合わせて各部材をピンで留める」*2もので、魚が泳ぐような姿にも見えることから、魚腹形(または魚腹形)橋と呼ばれることもある(南河内橋も、建設当初の通称は、魚形橋だったそうだ)。19世紀中頃にまずイギリスやドイツで鉄道橋に用いられ、19世紀後半にアメリカで大流行したが、その後に架橋された事例は皆無に近いという*3。そうした背景から、そもそもなぜ南河内橋にレンティキュラートラス形式が採用されたのか、その理由は橋梁関係者の間でも謎とされていると菅氏は指摘する。米国での大流行から遅れること30年の歳月を経て誕生した南河内橋は、「完成当初から相当『時代遅れの橋』であった」*4と。歴史のミステリーがそこに絡んでいる。
河内貯水池は、八幡製鐵所の第3期拡張工事の一環として430万円(当時)の巨費を投じ、1919年(大正8年)から延べ90万人の人員と8年の歳月をかけて建設された。建設当時、東洋一の規模を誇ったと言われる堰堤など、一大土木事業だった。
その設計・建設を指揮したのが、八幡製鐵所の技師だった沼田尚徳(ぬまた・ひさのり)氏だ。沼田技師は、1900年(明治33年)に京都帝国大学理工科大学土木工学科を卒業した俊才で、河内貯水池の設計・建設は自身でも「私の最も生涯の記念になる仕事」*5と回顧している。実際、その仕事に対する熱量は並々ならぬものがあったと容易に想像できるほど、河内貯水池とその関連施設の造形・意匠は凝りに凝っている。コンクリートダムの表面をすべて切石で覆った堰堤を筆頭に、貯水池内に架けた5つの橋は「それぞれ構造意匠を異にしている」*6など、そのこだわりが窺える。当然ながら、工期は延び、予算は年を追うごとに膨らんだ。沼田技師の回顧談にも、「会計監査院が現れ、工事が凝っている。(中略)あの魚形橋〔筆者注: 南河内橋〕をつくって美観を添えたりしているので、大いに心象を害して私は叱られた」*7とある。建設中、南河内橋不要論も飛び出すなど、その架橋にはひときわ苦労があったそうだが、そうした逆境を跳ね除け、南河内橋は完成した。裏返せば、それだけ南河内橋に対する沼田技師の想いが強かったとも言える。
しかも、その目的は残された言葉を手かがりに推測すれば、河内貯水池に美観を添えること。つまり、ランドマークとなるようなモニュメント的な建造物を、後世に遺したいと沼田技師は願ったことになる。そこで選ばれたのが、レンティキュラートラス形式の鉄橋だった。そのようにして、南河内橋はこの世に生を受けたというわけだ。
ここで問いはふたたび、元に戻ることになる。
そもそもなぜ南河内橋にレンティキュラートラス形式が採用されたのか。
3.鉄都のランドマーク
河内貯水池建設に先立つ1915年(大正4年)に、沼田技師は英国と米国に視察出張に赴いている。その外遊の際に、沼田技師は米国ピッツバーグを訪れ、そこでレンティキュラートラス形式で架けられたスミスフィールド・ストリート橋を見ているはず、と菅氏は指摘する*8。近代日本の鉄鋼業はドイツから技術導入する形で出発したが、当時は第一世界大戦が勃発し、日本とドイツが敵対国になった関係もあり、「先進技術の導入先を米国にシフトしつつあった」*9時代だった。なかでもUSスチールの本拠地だったピッツバーグは、製鉄業に携わる者にとって憧れの聖地だったという*10。スミスフィールド・ストリート橋は、ピッツバーグのランドマーク的な存在だった。2018年に私がピッツバーグ国際空港を訪れたときにも、空港のエントランスにスミスフィールド・ストリート橋の巨大な写真が掲示されていた。この橋がピッツバーグの特別なランドマークであることは、その一例からも窺える。
菅氏は、「沼田技師がこの橋の設計者であるG・リンデンタールの『鉄橋には美的観点からの設計が重視されるべき』という思想に共感を覚えるとともに、河内貯水池が製鉄設備の一つであることの証として、ピッツバーグの例に倣い、モニュメント的な意味を込めて、あえて時代遅れのこの形式を選んだのではなかろうか」*11と結論づける。先に引用した沼田技師の「あの魚形橋をつくって美観を添えたりして」という言葉とも符合し、この推論は実に正鵠を射ているように感じられた。
とは言うものの、沼田技師が南河内橋にレンティキュラートラス形式を採用した理由を明言した資料は見当たらないようで(私が不勉強なだけですでに公になっているのかもしれないけれど)、南河内橋は本当にピッツバーグのスミスフィールド・ストリート橋を本歌として建設されたのか、いまひとつ決定材料に欠けるような、もやもやした気持ちがないではない。そうであってほしい、と願いつつも。
それはそれとして、おじのことで普段から身近に感じていたピッツバーグに、めがね橋こと、南河内橋のモデルになった橋があるらしい、という情報は、私の心を鷲掴みにした。悔しいことに、それまでスミスフィールド・ストリート橋の存在すら知らなかったのだ。
ピッツバーグのどこに架かっている橋なのか。ウェブサイトを検索すると、市街地近く、モノンガヒラ川の両岸を結ぶ鉄橋だという。ピッツバーグ郊外のおじを訪ねたときに何度かピッツバーグの市街地を観光したこともあったが、残念ながらその橋を間近で見たことはなかった。しかし地理的には何度か訪れた場所だから、ひょっとしてその橋がたまたま映った写真があるかもしれない。そう思って1000点以上の写真データを漁ると、ワシントン山という名の丘の上から市街地を見下ろした写真の端に、かろうじて小さくその姿を確認することができるものが見つかった。けれど、その写真では橋の姿はあまりに小さ過ぎて、拡大しても細部の構造はよくわからなかった。
仕方なくウェブサイトを検索すると、いくつものスミスフィールド・ストリート橋の写真がヒットした。写真を見ると、なるほど、確かに南河内橋にそっくりだ。そっくりだが、それだけで南河内橋のモデルと断定してしまっていいものか。私の中で、その答えは宙ぶらりんのままだった。
実際にスミスフィールド・ストリート橋に立ってみたら、あるいは何かわかるかもしれない。次にピッツバーグを訪問する際は、必ずその橋に行ってみようと心に決めた。特にピッツバーグ行きの計画があったわけではないけれど。
4.スミスフィールド・ストリート橋はまだ遠く
ピッツバーグ行きが持ち上がったのは突然だった。今から数年前のことだ。ちょうど私が妻と結婚したばかりで、新婚旅行にかこつけてカリフォルニアへ移住したいとこを訪ねる計画を立てていた。
出発まで1週間を切った頃だった。私が同僚と昼食を囲んでいるときに、いとこからメールが届いた。「とても悲しい知らせがある」という一文を目にして、嫌な予感がした。おじが亡くなったという知らせだった。3月も終わろうとする頃で、街中だけでなく、河内貯水池の堰堤付近の桜並木ももう直ぐ満開を迎えそうな気配が漂っていた。
カリフォルニア行きをキャンセルし(格安航空券で旅程を組んでいたため、飛行機代は一銭も戻らなかった)、おじの姉である母の航空券も急いで手配して、妻と3人でピッツバーグへ飛んだ。当然ながら、スミスフィールド・ストリート橋に足を運ぶ余裕はなかった。しかし、捨てる神あれば拾う神ありというか、帰りのピッツバーグ国際空港のエントランスで、スミスフィールド・ストリート橋の巨大な観光ガイド写真を目の当たりにしたのだ。きっとそれまでもそこに掲示されていたのかもしれない。しかし、その存在に気づいたのは、その日が初めだった。
そこには現在のレンティキュラートラス形式の橋は3代目で、1881年から仮設工事が始まり1883年に完成したと解説されていた。沼田技師が視察旅行の際に見たのも、現存するこのスミスフィールド・ストリート橋だったことになる。ピッツバーグの人々にとってこの橋が特別な意味を持つのは、ピッツバーグ(中心部)で初めて架橋された橋があった場所に架けられていることが大きいらしい。現在のレンティキュラートラス形式の橋に架け換えるときには、世界に名を知られる鉄都ピッツバーグを象徴するような鉄橋を架けようと、想像もできないような人々の熱いドラマがあったのかもしれない。
もしかしたら、スミスフィールド・ストリート橋を案内された沼田技師は、そんなエピソードの数々を案内役から聞かされたのかもしれない。だからこそ、河内貯水池にレンティキュラートラス形式の鉄橋を架けようと決めたのかもしれない。
おじが亡くなった年の夏に、初盆ということで、今度は母と私の2人でふたたび、ピッツバーグを訪れた。しかし、このときも私はスミスフィールド・ストリート橋に立つことは叶わなかった。おばの提案で、帰国日に空港へ行く途中で立ち寄ろうとしたのだけれど、スミスフィールド・ストリート橋の周辺の道路事情がひどく込み入っていて、要は一方通行が多くて、とうとう橋のたもとに私たちはたどり着けなかったのだ。これ以上ぐるぐる周回していると飛行機の時間に遅れるということで、後ろ髪を引かれつつも、立ち去らなければならなかった。手を伸ばせば届くような近くまでやってきながら、思いを遂げられなかったのだった。
飛行場へ向かう別の橋を渡りながら、遠くに並行するように架かるスミスフィールド・ストリート橋を写真に撮っている間、こんなに近くに見えるのになんて遠いんだろう、と思わずにはいられなかった。まるで南河内橋をめぐる歴史のミステリーのようだ、と。
南河内橋は本当にスミスフィールド・ストリート橋をモデルに架設されたのだろうか。沼田技師は地球を半周してこの巨大なめがねをこの地に持ってきたのだろうか、と。まだまだ調べなければならないことは多い。
今でも南河内橋のことを考えると、その橋の起源に考えをめぐらせ、地球の裏側にあるピッツバーグへと私の興味を駆り立ててくれたおじの一生に想像をめぐらせ、河内貯水池建設に込められた沼田技師の想いや足跡をあらためて知りたい、と私は思うのだ。
【注釈】
*1 …北九州地史研究会・編「北九州の近代化遺産」(弦書房、2006年)、118ページより引用
*2 …北九州市教育委員会「北九州市 史跡ガイドブック」(北九州市、2009年)、128ページより引用
*3 …「北九州の近代化遺産」、118ページを参照
*4 …同書、118ページより引用
*5 …菅和彦『レンティキュラートラス橋の考察』(「遠想 つちき会四十年記念小誌」所収)、38ページより引用
*6 …「北九州の近代化遺産」、118ページより引用
*7 …菅和彦『レンティキュラートラス橋の考察』(「遠想 つちき会四十年記念小誌」所収)、38ページより引用
*8 …同書、37ページ
*9 …「北九州の近代化遺産」、118ページより引用
*10 …菅和彦『レンティキュラートラス橋の考察』(「遠想 つちき会四十年記念小誌」所収)、37ページを参照
*11 …「北九州の近代化遺産」、119ページより引用
【参考文献】
北九州地域史研究会・編「北九州の近代化遺産」(2006年)、弦書房
北九州市教育委員会「北九州市 史跡ガイドブック」(2009年)、北九州市
菅和彦『レンティキュラートラス橋の考察』(「遠想 つちき会四十年記念小誌」所収)、2005年
市場嘉輝『土木遺産の香 第46回 最後のレンズ形トラス橋「南河内橋」』(一般社団法人 建設コンサルタンツ協会誌「Consultant Vol.241」所収)、2008年
作者:ヨシダトモヒコさん