エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入賞作品
「はいはい、メロンパンとカレーパンで△円」「はいはいお次は〜」とおばちゃんの声。昭和56年。高校1年生の私は藤木のおばちゃんにお世話になった。藤木のパン屋さん。日豊本線、城野駅近くの古い商店街に佇む小さなパン屋さんだった。 日豊本線上りと下りの列車が同時に着く。まだ国鉄だった時代。駅はいろんな制服を着た高校生で溢れかえった。その流れはそのまんま藤木のパン屋さんへ流れていた。
おばちゃんを中心にぐるりとパン皿が並ぶ。調理パン、甘いパン、いろんなパンが常時20種類はあったと記憶している。値段札もないのにおばちゃんは計算が早い。「はいはい」と笑顔で応対しながら素早く計算をしていた。
そしていろいろな方向から注文を受けても、おばちゃんはヒトツも聞き逃さなかった。おばちゃんの耳は聖徳太子みたいやね、と女子高生のもっぱらの噂だった。
女子高生の食欲はモンスター級だ。私も呆れる程凄すぎる食欲だった。家でお弁当を作ってもらっていてもパンを買う。早弁でパンを食べる。デザートと言い食後に甘いパンを食べる。ダイエット、太りたくない、と口では言っても食べている。本能にはかなわない。
藤木のおばちゃんのパン以外にも私が行った女子高には人気のパンがあった。
三萩野の虎家のパンだ。3種類の揚げパン。リングドーナツ、あんドーナツとカレーパン。虎家のパンが食べたい時には小倉駅で降りてバスに乗った。学校最寄りのバス停より2つ手前で降りて揚げパンを買う。3種類買う。お弁当を食べても揚げパンは別バラ。高校時代の私は炭水化物大好き、パン大好きでぷくぷくしていた。今ならお弁当と揚げパン3個出されたら、ちょっと無理です、と言う感じだ。でも当時は食べていた。食べて喋って大笑いしてエネルギーを消費していた。
藤木のパン屋さんと虎家のパン。
高校を卒業して数回行った。その後も懐かしくて通った。
今は藤木のパン屋さんは閉店して跡形もない。城野駅前再開発で景色は変わっていた。
虎家のパンは健在だ。早朝営業に変わりなし。今も5時台から開店している。高校時代を懐かしみ7時頃行ってみた。3種類の揚げパンを家族分買って帰る。常連さんでひとり20個買い、もっと沢山買うお客様もいらっしゃる。
北九州は食の宝庫だ。私は炭水化物に限局して小倉のパンの記憶が著しい。他にも美味しいもの、安いものが沢山ある。
人それぞれの思い出に刻み込まれている食の記憶。藤木のおばちゃんな明るい声と笑顔があったから、高校職業科を頑張れた。衛生看護科のつらくて苦しい看護実習に耐えることが出来たのは、おばちゃんのおかげ。
虎家の美味しい揚げパンがあったから、緊張と軍隊生活のような高校衛生看護科の躾に歯を食いしばることが出来た。
本当に心から感謝している。
北九州の食が私を支えてくれたと言っても過言ではない。
今回はパン、炭水化物に限局した思い出を綴った。食欲旺盛な高校時代の女子の胃をがっつり満たしてハートも鷲掴みにされた2店の思い出。安らぎと心地よい安定を多感な時期に与えていただき感謝している。
今はもう懐かしい思い出。
たまに藤木のおばちゃんが夢に出てくる。「はいはい、□パンはいくら」と計算しながら全体に目配りをしている。パンを包みお金を受け取りおつりを手渡す。コンビニがなかった時代の個人商店の方々は、頭が冴えていた。おばちゃんの計算に間違いはなかった。
女子高でヤンキーも多い学校だった。でもみんなおばちゃんの会計の順番を静かに待っていた。今思えば愛すべき可愛らしい高校生たちだった。
そんな同世代も、もう50代半ば。
孫がいたり、早い人はひ孫も抱いている。みんな藤木のパンや虎家のパンの思い出を、孫やひ孫へ語るだろう。北九州の食の伝承だ。
「ばあちゃん、高校生の頃はよお食べよったんよ。お弁当食べてパンも食べてからね(笑笑)」。
そんな日々が続きますように。
著者:ふくちゃんさん