【福岡北九州フェニックス選手インタビュー】フェニックスの頼れる扇の要・武蔵選手

2022年からプロ野球独立リーグ・ヤマエ久野 九州アジアリーグに参入している福岡北九州フェニックスの選手インタビュー・第2回は武蔵(渡邊 武蔵)選手(背番号9)にお話を伺いました。(取材は2022年4月12日に行いました)

福岡北九州フェニックス
2021年に創設された福岡県北九州市に本拠地をおくプロ野球チーム。設立者は実業家のホリエモンこと堀江貴文氏。

武蔵選手は1995年北九州市生まれ。中学時代はボーイズリーグの八幡スカイホークス(現八幡ボーイズ)で投手としてプレー。ボーイズリーグ九州代表として全国制覇の経験を持ちます。九州国際大付属入学後に強肩を生かして捕手に転向。社会人野球を経て2018年にBCリーグ・信濃グランセローズに入団します。2020年に同リーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに加入。その後、九州アジアリーグの大分B-リングスを経て、2022年に福岡北九州フェニックスに入団。9年ぶりに地元・北九州でのプレーに臨む武蔵選手にお話を伺いました。

ー久しぶりの北九州市民球場はいかがでしたか?

2013年の夏の大会以来なので9年ぶりでした。
ブルペンやファウルゾーンなど当時と変わったところが多いな、というのが初めの印象でした。
僕は北九州市民球場でキャッチャーをしていたときにケガをしたことがあるので、ケガをした場所にも行ってみました。良くも悪くも思い出のある球場です。

ー武蔵選手は九州国際大付属出身ですよね。高校時代の話を聞かせてください。

僕たちのときの監督は、東北高校でダルビッシュ投手(現サンディエゴ・パドレス)などを育てた若生監督でした。
何をしても監督に怒られるので練習に行きたくないときもありましたが、監督は野球を離れると相談にも乗ってくれたりと、年は離れていますがお父さんのような存在でした。

最後の夏は初戦で古賀竟成館に0-3で負けました。最初は勝てると思っていたんですが、初回に2点、中盤に1点を取られて、僕たちはチャンスをものにできなくて、気づいたら試合が終わってしまっていました。

そのときは明日から夏休みだ、と思ったんですが、次の朝には練習に向かう準備をしていたんです。親に「何で準備してるの?」と指摘されて、そこで試合に負けたことに気づきました。高校野球は不完全燃焼でした。

ー生まれ育った北九州に独立リーグのチームができると知ったときはどう思いましたか?

北九州にチームができるんだ、両親や恩師が試合を見に来られるようになるのでここでプレーできたらいいなと思いました。
それで、フェニックスのトライアウトを北九州で受けたんですが、結果の通知が届かなかったんです。
これで野球を辞めることになるのかなと思いました。8割方野球をやめる気持ちになっていたときに、SNSで埼玉武蔵ヒートベアーズとフェニックスとの合同トライアウトがあることを知りました。

悩みましたが、最後に悪あがきしてみようと、この合同トライアウトに参加しました。
そうしたら西岡監督に「お前、北九州のトライアウトにも来てたけどどうしたんだ?」と聞かれたので「どうしても地元の北九州で野球をやりたいんです」と答えました。
このときの会話はこれで終わったんですが、その後球団の方との面談が行われ「地元で野球をやれるならぜひやらせていただきたいです」と答え、フェニックスへの入団が決まりました。

ー西岡監督ってどんな方ですか?

監督からは、野球を本当に楽しんでることが伝わってきます。

実は、小学校6年生のときに一度西岡監督に会っているんです。
僕はホークスジュニアに所属していたんですが、監督が千葉ロッテマリーンズに在籍していたときにベストナインの表彰式で手をつないで歩きました。

このときは西岡選手のようになりたいって思っていたんですが、まさか同じチームで野球ができるとは想像もしていませんでした。今は西岡監督と一緒に野球できていることが幸せですね。今でも声をかけられるとドキッとします。

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