私の殿様が作った街 《第2回エッセイコンテスト優秀賞》

「小倉に住みたいから、引っ越ししよう」

 そう声に出して決意したのは、遡ること三年前。二〇二〇年の夏、まだ東京で仕事をしていた私は、コロナ禍真っ最中の通勤電車に乗り、忙しなく過ぎる地下鉄ホームの景色を見ていた。リモートワークという働き方が世に出ていた頃だが、私の仕事には関係なく、予備のマスクを何枚も持って出社をしていた。「旅行には行けないのに、仕事に行くなんて……」そうした思いも、私の決意に拍車をかけた。

 元々旅行と歴史が好きで、全国を回っていた。中でも九州地方は、多い時には月に三~四度ほど来ていた。関東の都心部近郊で生まれ育った私には、海を越えた先にある、どこか南国めいた土地の風土と歴史が魅力的に映っていた。歴史的な魅力はどこにでもあるけれど、それでも九州は特別だった。福岡で友人と夕食を共にしながら「来週は熊本、再来週は長崎にいるから」そんな会話をしたことも少なくはない。

 そんな私の最も好きな場所が、北九州市の小倉である。理由は、私の『殿様』である細川忠興公が基礎を築いた街だからだ。

 細川忠興公は、江戸時代初期に現在の京都府宮津市のあたりから九州へ転封となった。簡単に言うと、大名の引っ越しである。最初は大分県中津市あたりに居を構えたが、程なくして小倉へ移動した。小倉は彼にとって交通の要所であり、物資が豊かで、物流と情報が行き交う場所だったのだろう。忠興公は土地を切り開き、川を作って、城を築き、非常に大きな水上都市を作り上げた。その果てが、現在の北九州市小倉北区だ。今も小倉城の二階に上がれば、忠興公が作った町割(町の設計図のようなものだ)を見ることができる。

 私は忠興公を敬愛しているから、何度も小倉へ足を運んでいた。

 小倉駅を降りて、夏には祇園太鼓を行うエントランス広場を抜け、魚町方面へ向かう。商店街でご飯を食べた後は、紫川の緑に輝く水色を見て、深呼吸をする。電柱に付けられた町名を見て、にっこりする。

 京からやってきた忠興公は故郷を偲んだのか、はたまた使い勝手の良さを取ったのか、実際に京都にある土地名を小倉でも数多く使用した。祇園太鼓だってそうだ。元々京にあったものを持ち込み、礎とした。彼が小倉にもたらしたものは多い。私は小倉の今と昔を考えながら、ぶらぶらと歩く町並みが好きだ。

 小倉城までやってくると「ああ、今日もきれいな城だ」と思う。何度も写真を撮っているけれど、季節や天気の違いを理由にして、また撮ってしまう。

 コロナ禍でも人目を忍ぶように小倉へ行った。その度に「小倉に住んだほうが良いのでは?」という気持ちが強くなっていた。実際に住んで、忠興公が作った町並みの中で生きることが私には必要なのではないか? 自問自答するまでもなく答えは決まっていた。世の中が不安定な今だからこそ、思い立ったその時に動かなければ、何も出来ないままだと考えた。

「私、小倉に住みたいから引っ越すよ」

 両親に話し、準備を進め、仕事を変えた。忠興公の作った街に住みたい一心だった。

 それから約一年後の二〇二一年冬、紆余曲折の末、私は九州へ引っ越しが叶った。だが小倉に住むことはできていない。実のところ、まだ紆余曲折の「曲」あたりにいる、ということだ。しかし関東にいたときより格段に距離が近くなり、週に一度足を運ぶことだって出来る。小倉城と小倉城庭園は、密かに私の心の庭となった。四百年前と姿形は違えども忠興公の思いが受け継がれ残っている場所と思って、ひたすらに愛でている。

 今の目標は、改めて「小倉に住むこと」だ。あともう一歩、遠い一歩であるけれど、関東から飛び立ってきたことを思えば簡単な道のりに違いない。私はやると決めた。絶対にこの町に住んで、好きなだけ朝に夕に歩き回ってやる。今日も、小倉城に誓う。

作者:黒田きのとさん