変わらない皿倉山と北九州のおばちゃん 《第2回エッセイコンテスト優秀賞》

「起業祭、行くん?」「ランドセルは何色選んだと?」

私は視能訓練士として小児眼科で働いている。故郷北九州ではもちろん、福岡市で働くときも北九州弁で患児たちと接している。たとえ東京の眼科にいても変わらないし変えないつもりだ。

多くの人は、考え方や生き方に影響する「原風景」を持っているという。
私にとっての原風景は、生まれて10歳まで過ごした昭和50年代の八幡東区。
この街は国鉄八幡駅から南の皿倉山へ向かう緩やかな斜面とともに放射状に広がる。
当時あった路面電車(注/西鉄北九州本線、2000年全廃)が八幡駅から小倉方面へ走る。
新日鉄の社宅が並び、皿倉山の麓まで住宅が建ち、賑やかな商店/飲食店がひしめいて、カラフルでモダンな街だった。
夕暮れになると八幡駅の向こう、溶鉱炉の火が一晩じゅう空を赤く染めた。
雲に反射して空の半分が染まるさまは、子ども心にちょっと怖くて幻想的、爽快さもあるような不思議な光景だった。

私の家は八幡東区尾倉で小さな電器店を営んでいた。我が家のような電器店のほか、肉屋さん魚屋さん八百屋さんお餅屋さん洋品店下着屋さん…たいていのものは街のどこかの商店で買えた。
紳士服を仕立てるテーラーもあってオシャレで上品だなぁと憧れた。

同級生には家業がなにかのお店という子が多かった。
いつも遊んだ〇〇ちゃんは美容室の娘、同じクラスの〇〇くんは牛乳屋さんの子、といった具合だ。
お豆腐はもちろん豆腐屋さんで買う。母にボールを持たされお使いに行くと、おばちゃんが冷たい水に
沈んだお豆腐を手際よくカット。ちょっとした手品師だ。
お金が足りないので後で持ってきます。明日で良いけ、気を付けるんよ!
そんなやり取りが当たり前の時代。
 
お店は主に母が切り盛り。近所のおばちゃんが「うちに遊びにおいで」と呼んでくれてご馳走になったり、
おもちゃ屋さんで当時流行ったピンクレディーのグッズを買ってくれた。
「うちには子どもがおらんけね」と微笑むおばちゃんはとても優しかった。
半分以上の家庭は風呂が無く、銭湯に行くのが当たり前。いくつも銭湯があった。
夕暮れの風呂上がり、公園に立ち寄って母は近所の人たちとおしゃべり。子どもは入れ墨のある近所の若い男子たちが遊んでくれた。今では考えられない事だけれど男性も女性も入れ墨のある大人はたくさんいたし、風呂では「綺麗な絵だなぁ」と眺めていた。

酒屋さんには必ず角打ちが。たくさんのおいちゃん達が飲んでいて、酔って千鳥足で歩く姿がどこでもあった。
官営八幡製鉄所時代に始まる11月の【起業祭】は、露店がひしめく子どもにはたまらない夢のようなお祭り。
お小遣いを握りしめ毎年必ず遊びに行った。祭りを取り仕切るおいちゃん達がかっこうよくてちょっとしたヒーローだった。

どこの家にも事情がある。
私にも、家の事情で悲しかったり寂しい想いをした経験が。
そんなとき お話し相手は皿倉山だった。昼も夜も晴れの日も雨の日も、街から見上げる皿倉山は悠然として いつも見守ってくれた。

社会も街も、時代とともに変わる。
久しぶりに歩いた八幡の街。
空を赤く染めた溶鉱炉はもうなく、あのキラキラとひしめいていた商店の数は大きく減った。

だが不思議と、寂しいとは全く感じないのだ。
多感な幼少期。止まらない時の流れのなかであの賑やかでカラフルでモダンな時代の八幡で過ごせたことが嬉しい。

街は、人と時代の交差点。
いまは、そしてこれからは、その時代の人たちが変えてつくっていけば良い。

私は北九州に育てられた。
育ててくれたのは、あの時代の街と、おいちゃんおばちゃん達。
だから医療現場で出逢う子どもたちには「変わらない北九州のおばちゃん」の一人として接していたい。

「来週は誕生日やね!」「今日は病院までどうやって来たと?」
無限の未来が待っている子どもたちに。
久しぶりに八幡駅前に立ち、皿倉山に見守られながら、想いをこめて。

作者:平良美津子さん