第二の故郷 北九州 《第2回エッセイコンテスト優秀賞》

私が北九州に越してきたのは、約12年前だった。
今振り帰ってみると「もう12年もたったのか」と、あっという間に感じる。
なぜ私が12年間、ここに住み続けたのかを少しお話ししたいと思う。

私は東京生まれ東京育ちである。東京の大学を卒業してからは就職をし、実家を出て一人暮らしをしていた。
私にも人並みに運命の出会いがあり今の妻と出会った。そこでいざ結婚となった時、当然のように二人で東京に住むものだと思っていた。
やがて、妻のご両親へ結婚のあいさつするために、北九州へと初めてやって来た。北九州どころか九州自体が初めての訪問であった。

北九州空港に降り立つとそこは海に囲まれ、海はキラキラと眩しかった。妻の実家の窓からは、皿倉山が見え山が間近であった。
そこには子供の頃、修学旅行や家族旅行で感じたワクワクドキドキがあった。
その時は何となくであったが、
「いつかここに住んでみたいな」
という朧げな感触があった。

結婚の挨拶も無事終わり東京へと戻った。次の日からは今まで通りの日常が戻った。日常は安定ではあるけれど、何か忘れ物をしたようなフワフワした感覚があった。脳裏には北九州の海と山がいつもチラついて、東京のビルの間の空にいつも投影していた。

「北九州に住もう」

その投影がどんどんハッキリしてきて、ついに言葉となった。
結婚を機に北九州に住まないかと、直ぐに妻へ相談をした。妻は元々北九州に帰りたかったそうで、大賛成であった。話しはトントン拍子に進み、北九州にあっという間に移り住んでしまった。

妻の地元という縁で来た北九州だが、東京の喧騒から離れて自然と共存した街に移り住んだ、というのは最高に気分を高揚した。
夏になれば若松の海岸に千畳敷を見に行ったり、冬になれば皿倉山のケーブルカーにのって100万ドルの夜景を見たりと、北九州に魅了されていた。
時には足を延ばして別府の温泉や阿蘇の大観峰、雲仙普賢岳など、どれも心に残るものであった。
しかしながら、やがて日々感じる感動に慣れてしまった自分もいて、ワクワクドキドキが薄まっていくようであった。

そんなことを感じ始めていた時である。それと出会ってしまった。
「豊前海一粒牡蠣」である。

東京では見たことが無い牡蠣小屋というものは目にはしていた。だが牡蠣が少し苦手であった私は敬遠していた。
しかし、北九州に越して来た時と同様に牡蠣小屋が脳裏をチラついていた。
「気になるなら一回行ってみよう」
思い切って牡蠣小屋なるものに、妻と行ってみることにした。

炭で両面を焼き、殻がパカっと開いたモノを軍手をした手で恐るおそる取る。熱々のそれにレモンを掛けフーフーしながら口へ運ぶ。
牡蠣のクリーミーさと磯の香、その後のレモンの酸味。いくらでもビールが喉を鳴らした。
こんなに美味しいものを初めて食べた。びっくりした。もし食べたことが無い人がいたら、是非ぜひ食べて欲しい。
それから毎年冬が来るのが楽しみとなった。

これを契機に北九州の食には貪欲となった。
トヤマ商店の鶏のタタキは東京では絶対に食べられないし、若松トマトの甘さに今度は夏が待ち遠しくなった。
戸畑チャンポンの蒸し麺は、噛み応えがあり豚骨スープとの相性には正直降参だ。美味しかった。

このように最初は北九州の海と山の近さに感動を感じていたが、次第にそこにある「食」にがっちり胃袋を掴まれていた。
それも季節ごとに美味しいものが次々あって、それが身近にある。これではもう北九州を離れられない。

北九州に来て12年はあっという間で、その間東京へ行ったのは2回のみである。東京へ行く時間がもったいなかったのだ。
私の二人の子供たちは、もちろん北九州生まれ北九州育ちである。それが正直羨ましささえある。
既に北九州は第2の故郷ではなく、オンリーワンの故郷となった。
今でもワクワクドキドキを感じている。

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