ビボ日和 《第2回エッセイコンテスト最優秀賞》

どちらかが「ビボビボ」言い出したらその日はビボ日和だ。雨が降っていようが、気温が体温に迫る炎天下だろうが、冷たい風が皮膚を刺そうが、ビボると決めたら地下鉄と新幹線を乗り継いで北九州を目指す。

僕がビボを知ったのは一年半ぐらい前、彼女の地元である北九州の話になったときだった。東京に住む僕が北九州で知っていることといったら、小倉城があるということ、毎年派手な成人式が行われているということ、松本清張や森鴎外、林芙美子など、多くの作家たちゆかりの地であることぐらいで、それ以外のことはほとんど知らなかった。

「ほかに有名なところは門司港、旦過市場、美味しいサンドイッチ屋さん、あとはビボ!」

「ビボ?」

なぜかそのとき、彼女が口にしたビボという言葉から楽しそうな雰囲気を感じた。

ビボの正式名称はSNACK&COFFEE〝VIVO〟だから、本当はヴィヴォと表記するのが正しいんだろうけど、やっぱりビボと呼ばないとダメな気がする。トリコロールのひさしもビボ的だし、店内にある黒電話も実にビボ的である。この感覚は行ったことがある人じゃないと伝わらないかもしれない。行けばすぐに僕が言ったことがわかるはずだ。

初めてビボに行ったときは衝撃だった。カウンター席に案内されてメニューを見ようとしたら、彼女に「スパゲッティにして」とささやかれた。わけがわからなかったけど、僕は彼女の言う通りにした。

「味噌汁もお願いします」

僕は彼女の顔を見た。彼女の目は「大丈夫、私を信じて」と言っているように見えた。

注文したスパゲッティが運ばれてきて、その隣にそっと味噌汁が添えられた。スパゲッティに味噌汁という取り合わせはかなりシュールな光景に見えたけど、僕は来訪者。地元の人間を信じるしかない。

鉄板の上でジュージュー焼けているケチャップに染まった麺を掬い上げて口に含むと、濃厚でパンチの効いた味わいが口の中に広がった。美味かった。信じてよかったと思った。周りを見ると人気メニューなのかほとんどの人がスパゲッティを頼んでいた。

さて、味噌汁である。おそるおそる口を近づけて一口飲むと、これがまた悪魔的な美味さだった。かなり濃い目の味付けなのに飽きがこないというか、もう一口飲みたいと思わせるあと引く味わいなのである。

店を出て放心状態の僕に、彼女は「これがビボ」とクールに言い放った。
 
次回はオムライスを食べると決めていた。前回彼女が頼んでいたのを見て美味そうだったからだ。

テーブル席に座り、僕と彼女はオムライスを注文した。ほかの客がスパゲッティを注文するのを尻目にオムライスを注文するのは快感だった。

オレンジのドットが縁どられた皿に載せられたオムライスは輝いていた。卵の黄色と、ソースの焦げ茶、福神漬けの赤が作るコントラストは美しく、狂おしいほど魅力的だった。早速僕は完璧な楕円にスプーンを入れ、一口目を口に含んだ。

「美味い」

そこから言葉は無くなってしまった。僕にできるのは一心不乱に皿を突っつき、合間に味噌汁を飲むことだけだった。

僕たちの食事が終わるタイミングで、いかにもビボ慣れしてそうな男が窓際の席に座って注文をした。

「ちゃんぽんください」

僕は彼女に視線を向けた。その視線に気づき、彼女は僕の顔を見た。僕は小声で「ちゃんぽん食べたことある?」と訊いた。彼女は小さく首を振った。

ちゃんぽん? 何で喫茶店にちゃんぽん? 北九州では普通なのか?

ちゃんぽんがどんな姿で出てくるのか待っていたかったけど、席が空くのを待っている人たちがいたから僕たちは会計を済ませて店を出た。でも、どうしてもちゃんぽんが気になり、店の外からちゃんぽんが運ばれてくるのを待った。

窓越しに見た具沢山のちゃんぽんは実に美味そうだった。男が口に麺を運ぶ表情を見てもこれが絶品であることは容易にわかった。

放心している僕に向かって彼女が言った。

「これがビボ」 

作者:我妻許史さん