駅と海の見える場所から【エッセイコンテスト 優秀賞受賞作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 優秀賞受賞作品

「あなたの成績なら、ここだね」

当時は区外の県立は受験できなかったし、担任にそう言われて、あまり深く考えずに受験した。初めて高校に行ったのは受験当日。山の中腹にある学校まで続く坂道を登りながら、「間違えたかも」と少し後悔した。

高校まではバスで通った。私が乗るバス停は門司駅前からの乗客でいつも混雑していた。ステップに立つと、運転手さんから、「ステップには立たないでください」とよく注意された。それでも、乗れるだけラッキーで、停車すらせずに、「満員のため通過しま~す」と通り過ぎてゆくこともあった。それだけが理由にはならないけれど、遅刻しそうな日は、「門司高校(ずっと)下」のバス停から学校までの坂道を駆け上がったものだ。誰かがマジックでいたずら書きした(ずっと)。高校は閉校になり、校舎も移転してしまったので停留所名も変わり、残念ながら今は見ることはできない。

猛ダッシュしたにもかかわらず、遅刻したときは、先生から英和辞典で「愛の鞭」だと叩かれるのだから、たまったものじゃない。1年生の途中でバス通学に嫌気がさし、“汽車”通学を始めた。バスとは違って時刻表通りにやってくるし、必ず座れる。たった一駅、5分しか乗らないのに、小旅行をしている気分に浸れた。登校時は関門橋、下校時は下関側に沈む夕陽が見えた。夏はキラキラと輝く水面と白い波がまるで青空を反射しているかのよう。そして、門司港駅。朝は、「行ってらっしゃい」と見送られ、帰りは、「お帰りなさい」と迎えてくれた。

当時は、レトロなんてなくて、門司港は寂しい街だった。学校帰りに梅月に行って、うどんやかき氷を食べるくらいしか楽しみがなかった。高2の夏に始まった花火大会はクラスメイトたちと、「どんなもんかね~」と半分冷やかしで見に行った。今年はコロナの影響で花火大会は中止になったけれど、30回以上も続いているのが当時からしてみたら嘘みたい。あのとき、一緒に同じ花火を見た友たちも、今はそれぞれの場所で同じ空を見上げているなんて不思議だ。

父は海で仕事をして、兄妹を育ててくれた。私が生まれる年に、陸に上がった。市の消防局に採用され、定年まで消防艇長として勤め上げた。寡黙な人で、怒った姿を見た記憶があまりない。でも、怒ったときは怖かった。非番の日は、海図を見たり、船の模型を作ったりしていた。コーヒーが好きで退職後は、念願の運転免許を取り、陶芸教室に通った。
私の東京暮らしも30年近くになろうとしたとき、門司港駅と海峡が見えるマンションが建つことを知り、両親にプレゼントした。というのは口実で、両親亡き後でも戻れる故郷がほしかったから。

テラスでコーヒーを飲みながら、海を眺めることを楽しみにしていた父は、入居する2ヶ月前に自宅で倒れた。駆けつけた救急隊の中には、名前を聞いてOBとわかった方もいたそうだ。蘇生も叶わず、搬送先の病院で旅立った。もちろん、私たち兄妹も最後は見送れなかった。通夜、告別式が終わり、出棺の時間になった。火葬場に向かう親族用のバスの名前を見て、兄と共に驚く。

「お父さん、ひびきが迎えに来てくれたよ」

初代の消防艇の名は、「ひびき」。定年して17年も経っていたから、消防関係の参列者がほとんどいない中、父もうれしかったに違いない。復原した門司港駅も見ることはできなかった。頼まれて人の骨壺は作ったのに、自分は見知らぬ誰かが作った骨壷に入っている。

今は、北九州に帰りたくても帰れない日々が続いている。犬と暮らす母も心配だ。父が作ったマグカップでコーヒーを飲みながら、門司港駅と海峡を行き交う船舶を眺める日が待ち遠しくて、待ち遠しくて仕方ない。

著者:ジンジャーバレーさん