エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品
母の介護のため、大学からずっといた関西から、約20年ぶりに北九州へ戻ってくることになった。父も高齢でなにもできないため、生活全般を私が担うことになった。はじめての介護、もはや他人感のある親との同居、生と死と向き合う日々、毎日毎日折れそうだった。そんなとき、気分転換や自身の健康のために、家の近くを歩くことにした。単純に昔慣れ親しんだ場所が、いま現在どうなっているのかという興味もあった。
石蹴りをしながら帰った通学路、マウンテンバイクで走りまわった山道、叔母が経営し父が働いていた本屋さん、好きだった子の家。なくなったものもあれば、あたらしくできたもの、変わらない風景もある。いい思い出もそうじゃない思い出も、浮かんでは消え、浮かんでは消えて、一様に流れていく。雨戸が閉まり、庭が荒れ放題になった空き家たちを見ながら、誰もがみな、ここを去り、忘れさられるのだと思った。
約1年の介護生活が終わり、もろもろの手続きや片付けを終えたあとは、放心状態となっていた。妹からは鬱なんじゃない? と言われたが、助けてもらいたいという気持ちがありつつも、医者に行く気も起こらなかった。なにかを言葉にしたり調べたりなにもかもが億劫で、掃除や買い物など、最低限の日常生活を維持するのに精一杯だった。しかしこのままではいけないとなんども思い、そんなとき、派遣バイトってあったなあと思い、ネットで調べ、とりあえず1日だけの日雇いバイトをしてみることにする。これが新鮮だった。
登録制バイトというのは会社へ面談もなし、履歴書も提出なしで、スマホのサイトから即登録・即応募可能で、明日からでも働くことができる。いままでその会社やお店に直接電話し面接するアルバイトしかしたことがなかったため、時代は変わったなあと思ったものだった。派遣会社から仕事決定のメールがくると、添付されたデジタルマップを頼りに直接現地へ向かい、依頼のあった業者の指示にしたがい就業。当日現金払いの現場もあれば、週払い・月払いなど様々だが、やはり早くもらえる現場に人気は集中する。毎回人や現場が変わるため、飽きなかった。モノレールやJR、またあるときは高速バスを使い、東は大分の中津、西は福岡、南は筑豊まで足を延ばした。下関や若松には学生や観光客に混じり、船で向かった。応募はしていないが皿倉山までケーブルカーで行く現場もあった。
仕事が決まると、現場周辺になにかおもしろいところはないかと検索し、就業後に角打ちや商店街、旧名所や近代建築、純喫茶や大衆食堂、古本屋や銭湯などを巡る。おっさんくさい趣味だが、10代の頃にはなかった趣味なので、まるではじめてきた街かのように、散策した。応募する就業場所もここでしか味わえないような、ちょっと変わった場所を選ぶことが多かった。著名な建築家の建物でのイベントや地場産業への什器搬入、地元百貨店での催事や地域のお祭りなど、ちょっとしたプチ観光であり、現場側から見たリアルな社会科見学でもあった。
第二の二十歳と称して、いろいろな現場を見ていくなかで思ったのは、北九州という場所の歴史や土地の記憶、それぞれの区の違いのようなものもさることながら、多種多様な職種の人々が同じエリアに存在し、街は成り立っているのだなという当たり前の事実だった。それまでデスクワークなどしかしたことがなかったため、夕方のディスカウントストアなんかに行っても、仕事帰りであろう作業着姿の人がこんなに周りにいたのかと考えを新たにした。
大人になれば趣味嗜好が変わるように、子どもの頃には見えなかった遊びや風景が見えてくる。働く場所や住むところが変われば、それまで見えなかった感じ方や思考が立ち現れてくる。海のほうを見れば臨む工場のある光景がちょっと誇らしく見え、この街で暮らしていくビジョンが少しだけ花開いた気がした。この街で生きていく、この街と生きていく。その先々で出会う誰かでありたいと胸を熱くする。
作者:dpbqさん