夕暮れ時、列車を待つホームをブルートレインが勢いよくすり抜けていく。これ見よがしに車両に光る「東京」の文字を見て、私は大人気もなく泣いた。「東京に帰りたい。」これが私の30年前の姿である。
宮城で生まれだが、大学入学で東京に出て、そのまま教員をして東京で暮らしていた。それが、大学で知り合った縁で結婚した妻が長女ということで、なんとなく来てしまった北九州だった。いや、なんとなくというのは嘘になる。父親から「小倉にある傷痍軍人の学校に行きたかった」という話を聞かされていたせいか、親父の夢を果たしてやろうという力が働いたのかもしれない。もっと正直に言うと、当時の私は東京での生活に疲れていたのかもしれない。今の生活から逃げたい。どこでもいい新しい生活の場を求めていたのかもしれない。振り返って理由を探してみると、ざっとそんなところだろう。
つまり、いくばくの期待と夢を抱いてやって来た北九州であったことは間違いない。ところが、言葉も食事の味付けも、まるで違う。ましてや友達もいない。またしても「幸い」はなかったのだ。30過ぎの親父が、ホームでウルウルしている姿は、今思うと「危ない」の一言だったかもしれない。しかし、そうした迷える私に、近所の方、職場の方、親戚の方が、えらくやさしくしてくれた。東京では経験したことのない優しさだった。ほとんど私をだまそうとしているのではないかと疑ってしまうほどやさしくしてくれた。声を大にして言う「北九州人は情に厚い」のだ。もう一つお気に入りがある。車で10分もいけば、海がある、山がある、小倉というちょっとした都会もある。大きからず小さからず、サイズがちょうどいいのである。こんなシチュエーションは日本全国を探してもそうないだろう。いまやすっかり北九州が好きになった理由である。
数えてみると、北九州にやって来たのは30数年前だから、72歳となった今、人生の半分を北九州で過ごしたことになる。今では、言葉もすっかり、仙台弁の「だっちゃ」から「だ」が抜けて、北九州弁「…ちゃ」になったし、ラーメンも豚骨一筋、醤油ラーメンはお断り。祇園の鉦や太鼓の音にドキドキし、提灯山笠の灯りにじっとしていられない自分がいる。たまの休みには童心に帰って「到津の森公園」の動物に会いに行く。妻とおしゃべりしながら、のんびり一周するのにぴったりの広さである。そして何より友達がたくさんできた。いまや北九州の暮らし方が地に着いた感じである。いまさら東京に帰りたいなどとは思わない。さていくつまで生きられるか、いずれにしてもこの北九州に骨をうずめることになるだろう。愛する北九州に。
作者:三島学さん