観覧車の光る街【エッセイコンテスト ITOHEN賞受賞作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 ITOHEN賞受賞作品

ある4月、私は大学受験にことごとく落ち、浪人生として北九州にやってきた。勉強に本腰入っていなかったのは自覚できていたので、落ちたことに異議は挟めない。しかし、周りの友達が皆大学生になる中で、もう1年遠回りをするというのは、とてもみじめで不安で、泣いてばかりいた。

厳しいことで有名な予備校の寮に入ることになり、ほぼ下を向いたまま小倉駅に降り立った。見えるもの全て灰色で、ただ足元ばかり見て歩いていたので、駅前のエスカレーターに驚いたことだけはよく覚えている。私の地元は九州の離島で、当時はコンビニもなく、エスカレーターは島の小さなショッピングセンターにあるものだけで、屋外に大きなエスカレーターがあるなんてと驚いたのだった。

親元を離れての、それも集団生活。寮自体も古く、5階建てエレベーターなし、風呂トイレ冷蔵庫共同、自室は5階。そして、ルールは厳しく、隙さえあれば勉強せよという雰囲気。みじめさや不安に緊張感も加わり、1日をこなすのにも疲れてしまった。予備校と寮の往復の日々で、駅前で人にぶつからないよう多少前を見て歩くようになったが、まだまだ景色は灰色だった。

階段を5階まで登るのは、毎日のことながら苦労し、なぜ下の階じゃなかったのかと思っていた。ただ、ひとつだけいいことがあった。屋上にすぐに出られて、そこから観覧車を眺めることができたことだ。夜にはその観覧車は七色の光を輝かせながらそこにあった。もちろん島には観覧車なんてない。七色に光るものなんて、虹か海かタマムシか、そういった自然の淡いものしかなかったから、数秒ごとに色を変えながら、煌々と堂々と光る観覧車に、街(都会)に出てきたことを感じ、人工物の美しさに圧倒されて眺めていた。

時間もよかった。夜の自習時間が終わり、消灯までのわずかな自由時間、歯みがきをしながらその観覧車を眺めていると、ふっと光が消えてしまう。圧倒的な存在感を一気に消してしまうのだった。毎回ドキッとする、その瞬間がとても好きだった。動き続ける街に静寂が訪れたように感じ、一日の終わりを教えてくれる。もちろん、まだまだ街は休んではいないのだけど、「今日は終わり、明日がやってくるよ」と伝えてくれているようで、私しかこの消える瞬間を知らないのだと思うと、不安な私の背中をそっと押してくれているように、勝手に思っていた。

夏ごろには寮での生活にも慣れ、周りの景色にも色が付き始めた。島にはない大きな本屋で迷いながら参考書を買ったり、わっしょい百万夏まつりの花火を見て寮に走って帰ったり、短い夏休みの閉寮前に冷蔵庫を空にしないといけないので、アイスパーティをしたり、勉強以外の思い出も色がついて残っている。

街をもっと探検したいと思ったのも夏が終わったころからだった。島にはない手芸店や、行列のできるパン屋さん、何屋さんとも言い難い店や建物が歩いて行ける範囲にたくさんあった。入り浸る時間もお金もなかったが、「自分のほしいものを手に取って見て買うことができる」という、きっとそこに住んでいる人には何でもないようなことが、私にはとても嬉しいことで、街で暮らす楽しさをほんの少し味わっていた。

受験シーズンが本格化してくると、思い出も再び薄くなってくる。それこそ、隙あらば勉強するようになったからで、小倉の街の景色を思い出せるのは、合格が決まってからの3月になる。退寮するまでの数日、シロヤでバタークリームのケーキを買い、合格した友達でお祝いしあった。小倉城の下でバトミントンをした。そして、浪人生でもなくなり、不安もみじめさもなくなった私は、寮の友達と一緒に、淡いピンクの春色のスカートを買い、生まれて初めてストパーをかけた。ハリーポッターのハグリットのようだった私の髪は、店に並ぶリカちゃん人形のようにまっすぐになった。それはもう、キラキラとした未来を迎える準備を進めていった。

そして退寮の日、買ったスカートを履いて屋上に上がり、最後に観覧車を眺めた。昼だったので光っていなかったが、ゆっくりと回転していた。ついぞ観覧車に乗ることはなかったが、観覧車と共にあった1年のことは忘れないだろうと思った。それを記すべく、使い捨てカメラで、観覧車をバックに写真を撮ってもらった。寮で一番気の合う友達に「奥田民生っぽく撮って」と伝えたらわかってくれたようで、現像した写真を見ると、黄砂のせいか、白く淡い膜がかかった観覧車を背景に、ストパーでつやつやしたロングヘアの、淡いピンクのスカートを履いて、斜めを向いてどこか遠くを見ている、満足げな表情の私が写っていた。

それから10数年経ち、私は結婚し、九州を離れ鳥取に住んでいる。鳥取は、どこへ行くにも時間がかかる。飛行機は羽田行きばかりで、それ以外へ行こうとするなら、特急電車で中国山地を越え新幹線に乗るか、車を1日走らせるしかない。私も夫も九州出身なので、たびたび車を走らせ九州に帰省する。長い長い中国道の山道を越え、いつまでも海が見えないことに不安を覚えながら、下関のフグのマークが増えてくるとホッとし、そして関門橋を渡る。渡りきった瞬間、「ただいまー九州!」と毎回声を上げてしまう。九州の入口は、私の過ごした街なのだ。私の青春がスタートした街なのだ。

先を急いでいなければ、小倉や門司で宿を取ってひと休みするが、ホテル周辺のことも飲食店も、1年間ほぼ寮と予備校との往復しかしていなかった私は、あまりよく知らない。それでも、知ってる街の空気を吸えるのが嬉しく感じてしまう。きっとこの先も、私にとって九州を真っ先に感じる場所として、北九州を親しく感じていくだろう。

著者:のぐち チャボさん