エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品
私には祖父母が六人いる。もちろん実の祖父母ではない。両親の結婚前に亡くなった明治生まれの父方の祖父母。幼少期に亡くなった明治生まれの母方の祖父母。そしていわゆるご近所さんのご夫婦である。私が三歳まで暮らしたその土地の近くに住むご夫婦で年齢的にもちょうど祖父母と言った感じだった。
結婚後八幡東区の父の実家に暮らしていた両親の元に昭和六十年私は産まれた。良い時代だったのだろう。両親の留守に伴う私たち姉妹の預け先はそのおいちゃんとおばちゃんの家だった。バス停からの帰り道、自宅の二階の窓から笑顔でおかえりと手を振るおばちゃんをよく覚えている。わがままを言って叱られたり、泣いてあやしてもらったりもした。七五三の着付けはおばちゃんの役目で庭の植木の手入れはおいちゃんの役目だった。
それから三十年以上が過ぎ母となった私を今も孫のように可愛がってくれ、そしてまた息子もひ孫のように可愛がってくれている。
先日ふと思い立ち久しぶりに訪問すると突然の訪問にも関わらずいつものように孫やひ孫のごとく笑顔いっぱいに迎え入れてくれた。
ご近所さんではなくなったこの三十年余りも常に家族のようなお付き合いがあったのだ。もちろん私の結婚式にも祖父母代わりとして参列してくれた。
久しぶりの近況報告の後おばちゃんが私に一冊の本を差し出した。これまで我が子にも話してこなかった自身が経験した戦争の記憶を北九州市立大学の学生と共に記録に残したのだそうだ。戦争経験を語り継ぐ人々の減少と八十を過ぎたことがきっかけだったそう。人生の終着点が近づいて来ていると感じたのだろうか。そのきっかけを聞いたときあと何年同じ時を生きられるのだろうと考えた。人生はいつ何が起こるかわからない。できるだけたくさん会ってお互いに元気な顔を見てたわいもない話がしたいと心の底から思った。
差し出された本には当時小学生にもならないおばちゃんの鮮明な記憶が綴られていた。
満州へ渡った時の事、満州での生活、家族全員無事に日本へ引き上げた時の事、小学生にもならないまだまだ幼い女の子が経験したどれも一筋縄ではいかない長い長い一日が七十年以上前の記憶を頼りに鮮明に記されていた。
その中に北九州で生まれ育った私がよく聞き慣れた大分県臼杵市の文字があった。大分県臼杵市は私の母方の祖母の故郷である。おばちゃんは満州から大分県臼杵市に住む親戚を頼りに引き上げたのだそうだ。臼杵市には母方の親戚がたくさんいた。
「あれ?臼杵はうちのおばあちゃんの故郷だけど…」
おばちゃんがすかさずに答えた。
「あら、あなたお母さんの従兄弟と私は小学校、中学校の同級生なのよ。」
ずいぶんと聞き慣れた名前だった。父の実家のご近所さんだったおばちゃんは母方の親戚とも付き合いがあったのだ。もちろん両親は知っていたが特に隠す理由も話す理由もなく私は初耳でとても驚いた。
偶然か必然か…不思議なご縁のあるご夫婦とこの北九州市で巡り合った私たち家族。六十年もの長きに渡り私たち親子四代と親交を温め続けてくれる近所のおいちゃん、おばちゃん。両親にとっての親代わり、私にとっての祖父母代わり、息子にとっての曽祖父母代わりとなり家族のような親しみを持たせてくれている。
私が親になった時、おいちゃんに言われた言葉がある。
「いいか。子どもは三つまでに全ての親孝行を終わらせる。子どもに多くを求めるな。三つまでのかわいい毎日を大事にしろよ。」
祖父母との思い出はおろか会話さえ記憶にない私にとっていつも心のどこかに留められた大切な言葉である。 両親も聞かされたであろうおいちゃんの教えを守り私は今日も最愛の土地北九州市で愛情いっぱいに子育てを楽しんでいる。
作者:宮崎さん