「自分を守るのは、自分」―演劇と対話で深める薬物乱用防止教育

令和7年11月13日、北九州市立高校の体育館に、全校生徒約600名が集まりました。そこで上演されたのは、北九州市を拠点とする「劇団 集合チキューン」による、薬物乱用防止をテーマとした約30分の演劇です。

観劇後は、引き続き体育館で薬物使用経験を持つNPO法人PLANETの職員による講演が行われました。その後、希望する生徒たちが別教室でインタビューを行いました。演劇で心の扉を開き、対話を通して理解を深めるという、従来の啓発とは異なる新たな取り組みが始まっています。

リアルな物語が問いかけるもの

物語の主人公は、高校に入学したばかりの珠子。受験の失敗や母子家庭での厳しい経済状況に悩む中、SNSで知り合った人物から「ふわふわする薬」を手にしてしまいます。

「体に対する害はタバコより少ない」「海外では合法の国もある」――インターネット上にあふれる曖昧な情報を目にした珠子は、一度薬を使ってしまい、「受験に失敗したことや、可愛い服が着られないこと、嫌な思い出も全部手放せた気がした」と話します。
本作が描くのは、薬物に手を出す「悪い子」ではありません。誰もが日常で抱える悩みや、心の隙間に薬物依存の入り口があることを示しています。

「依存」のメカニズムを体感する

演劇の中盤では、飼い猫”セバスチャン”役の俳優が観客にこう語りかけます。
「人間は、一度快感を覚えると、『それをするとまた快感が得られる』と記憶します。薬で得た強烈な快感の記憶は簡単には消えず、人が本来、努力によって得るはずの快感よりも、はるかに楽に得てしまいます」

薬物依存の本質は、意志の弱さに原因があるのではなく、脳の仕組みにあります。この科学的な説明を物語に自然に織り交ぜたことで、生徒たちは薬物の危険性をしっかりと理解できました。

物語のクライマックスでは、珠子と親友・凛花の対話が描かれます。薬物を使ったことが発覚しても、凛花は珠子を責めず、自助グループへの参加を提案します。二人で目を閉じ、穏やかなビーチをイメージする時間をともに過ごします。

「自分が、一番、自分の味方でいなければいけない。あなたの身体も思考も尊厳も、この世の誰にも、何にも、薬にも傷つける権利はない」

ここで伝えられるのは、薬物に頼らず自分を癒やす方法と、何より一人で抱え込まず信頼できる人に相談する大切さです。

作・演出 山口大器氏が込めた想い

脚本を手がけた劇団 集合チキューンの山口大器氏は、今回の作品について次のように語ります。

「大麻や覚醒剤だけでなく、市販薬の乱用など、高校生にとってより身近な『依存』の問題もあります。簡単には解決できない課題ですが、薬物の怖さを伝えるだけでなく、観劇という体験を通じて記憶に残してほしいと思いました」

「ダメ!絶対!」と恐怖心を強調した脚本も考えられましたが、山口氏が選んだのは薬物に頼りたくなる気持ちに寄り添い、解決のヒントを自分で見つけられる道筋を示す方法でした。

「生徒の皆さんに観劇を楽しんでもらう中で、依存について考えるきっかけになることを目指しました」

体育館という限られた空間にも工夫を凝らしました。十分な照明や舞台美術が用意できない状況を生かし、観客全体で目を閉じて場面を切り替える「セルフ暗転」を導入しました。この手法は一体感を生み出すと同時に、「自分の時間を過ごす」――薬物に頼らず、自分自身と向き合い、自分を癒やす時間を持つこと――という薬物依存のキーワードにもつながっています。

ある女性の物語――講演で語られた18年の歩み

演劇終了後、体育館では引き続き、薬物使用経験を持つPLANETの職員が自らの体験を語りました。その話は、演劇で描かれた珠子の姿と重なる部分が多くありました。

「幼い頃から家庭に居場所がなく、学校でもいじめを受けていました。誰にも相談できず、『いじめられる方が悪い』と言われ、味方がいませんでした」

「家を出るために結婚したものの、夫はアルコール依存症で暴力もありました。離婚後、実家に戻っても『こんな時に戻ってきやがって』と言われ、離婚の手続きも一人で行いました。」

「一人暮らしの寂しさから居酒屋に通うようになり、そこで薬物を教えられました。使ったとき、幼い頃からのモヤモヤした気持ちが一気に飛んでいったんです」

「最初は月2回程度だった使用は、やがて週1回にまで増えていきました。孤独感やつらさを感じなくなった一方で、仕事に行けなくなり、子どもへの罪の意識さえ感じなくなっていきました。 」

「実家に息子を預けて、『子供は人質だ』と言われました。薬物を使っている最中でも、次の薬のことばかり考えていました」

逮捕され、留置所に入ってもなお、「うまく使える方法があるのではないか」と考えていたといいます。

転機となったのは、北九州ダルク(現・NPO法人PLANET)との出会いでした。

「そこには、同じような孤独感や心のモヤモヤを持つ人たちがいました。ミーティングで自分の体験や正直な気持ちを話すと、仲間が共感し、黙って聞いてくれました。初めて安心できる場所を見つけたんです。その『居場所を手放したくない』という気持ちが、回復への動機になりました」

現在、薬物をやめて18年4ヶ月。今は施設の職員として、困っている人たちの支援を行っています。息子は大人になり、結婚して子どもも生まれました。

「未だに薬物を使いたいという気持ちはなくなりません。でも、回復を続けています」
その言葉に、体育館は静まり返りました。演劇で見た珠子の「これから、どうなるの?」という問いの答えが、目の前にありました。

演劇の後に待っていた「リアル」

講演後、1年生14名の生徒たちは別教室に移動し、NPO法人PLANETの代表理事や薬物使用経験を持つPLANETの職員にインタビューを行いました。生徒たちが質問を重ねる中で、演劇の内容が決してフィクションではないことが、さらに明らかになりました。

InstagramのDMから始まる誘い

「実際どこで手に入るのですか?」という質問に、PLANETの代表理事は淡々と答えます。

「居酒屋やインターネット、とくにSNSが多い。InstagramのDMでランダムに『体に良い』『タバコより安全』と誘ってくる。最初は無料で渡し、依存させてから売る。大麻なら1本2,000円から5,000円くらい。学生でも買える金額です」
演劇の珠子が「SNSで知り合いから薬をもらう」場面は、今も現実に起きている出来事でした。

使用後に起きること

「薬を使ったらどうなりますか?」

「性格が変わり、怒りやすくなって攻撃的になる。暴力的な行動もためらわなくなる。暴れた後の記憶もなくなり、同じことを繰り返してしまう」

珠子が感じた「ふわふわして楽になる」感覚の先には、自分をコントロールできなくなる怖さが待っていました。

やめることの難しさ

「やめるにはどうすればいいですか?」との質問には、PLANETの代表理事がこう答えました。

「誰かに助けを求めることです。一人ではやめられません。同じ経験をした人の支援が必要です。薬物依存は脳の疾患で、WHOでも認められています。完治はしませんが、回復は可能です。ただし、生涯薬物から離れた生活が必要です。市販の風邪薬やお酒も避け、食品の成分表示でアルコールが入っていないか毎回確認する生活になります」

演劇で凛花が珠子に提案した「自助グループ」の意味が、生徒たちに深く響いた瞬間でした。

生徒たちの変化

観劇と講演を終えた生徒たちからは、こんな声が聞かれました。

「主人公に共感できた。猫がしゃべるという非現実的な設定が、薬物という重いテーマをおもしろく、見やすくしてくれた」
「最初は楽しい雰囲気で見ていたけど、目を閉じた瞬間から自分も作品の中に入り込んだ感じがした。すごく印象に残った」
「母親と娘がお金でけんかする場面がリアルで、薬を使った人の感情がマイナスからプラス、そしてまたマイナスになる描写も現実的だった」
30分という上演時間については、「飽きなかった」と答える生徒もいました。

保健体育科の井上先生は、演劇と講演の組み合わせの効果をこう評価します。

「今の子どもたちは自己肯定感が低いと言われています。SNSの普及で、他の誰かと自分を比べながら生きることが増えました。一人一人にすばらしい部分があるのに、自分で消してしまう。そんな現代の若者の姿が演劇でリアルに描かれ、そして講演で、実際に孤独や居場所のなさから薬物に頼ってしまった方の話を聞く。薬物はそうした心の隙間につけ込むということが、生徒たちの心に深く刻まれたと思います」

観劇という手法ならではの効果

この取り組みを企画した北九州市保健所医務薬務課の担当者は、観劇という方法を選んだ理由についてこう説明します。

「従来の薬物乱用防止の講義形式では、どうしても効果に限界があります。より深く心に響く手法として観劇を選びました。観劇は、登場人物の気持ちに共感することで、他者への想像力も育てます。高校生の心に訴えかけ、感情だけでなく思考力も鍛えることで、『薬物を使わない』という強い意識と、行動するための力を身につけてほしいと考えました」

北九州市立高校では、1学期の保健授業で薬物乱用について学んでいます。しかし、若い世代の薬物乱用が増加傾向にある中、より効果的な啓発方法が求められていました。ポスター作成やSNSを使った啓発、ヤング街頭キャンペーンなど、さまざまな施策を行う中で、生徒自らが「もっと知りたい」と考え、今回の講演とインタビューが実現しました。

演劇で共感を呼び、講演で回復の道を学び、インタビューで現実を知る。この三段構えのアプローチは、生徒たちに深い印象を残しました。

「もしも」に備える力を

上演の最後、劇団員たちは生徒にこう呼びかけました。
「これからきっと、みなさんの人生にはいろんなことが起きます。もしかしたら、この物語のような空想の薬ではなく、本物の薬と出会ってしまうかもしれません。そのときは、どうか一度立ち止まり、正しい情報を身につけて、あなたが一番あなたを守れる方法を選んでください」

演劇で心を開き、講演と対話で理解を深め、「自分を守る力」を身につける。この日、約600名の高校生が体験した出来事は、薬物乱用防止教育に新たな可能性を示しました。

最後にあなたを守れるのは、結局あなた自身です。北九州市では、今後も若い世代に響く薬物乱用防止の啓発活動を続けていきます。