インタビュー企画「KITAQ Style 1000 Project ~北九州市の“人”をもっと知る~」

明春卒業選手送別北九州五市対抗高校野球大会 ~記録から甦る69年前の引退試合~【エッセイコンテスト 入選作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 入選作品

今回、エッセイコンテストへ投稿するにあたり、私は表題の「明春卒業選手送別北九州五市対抗高校野球大会」をテーマに選ぶことにした。おそらく、北九州の相当コアな高校野球ファンですらこの大会名を聞いても「そんな大会あったの?」と思われる方がほとんどだろう。それもそのはず、この大会は1951年から1959年まで行われた引退試合のための大会だからである。そのため、実際に選手として参加していた当時18歳の高校生も2020年現在では79歳~87歳の高齢者という計算になる。当然この大会を知る人も少なくなってきている上に、大会記録としてまとめられた資料も今のところ存在しない。つまり歴史の片隅に埋もれつつある大会なのだ。そこで私は、新型コロナウィルス感染拡大による夏の地方大会中止で高校野球の引退試合が注目される中、エッセイコンテストに投稿することで69年前に第1回大会が開催された「明春卒業選手送別北九州五市対抗高校野球大会」の存在を北九州の人に少しでも知ってもらえればと思い、筆を執ることにした。
私自身は、学生時代は野球部ではなくバスケットボール部所属だったし、高校野球との直接的な関わりは社会人となった今も特にあるわけではない。しかしながら、学生時代から現在に至るまで高校野球への関心は高い。それは私が単純に野球というスポーツが好きだからというのもあるのだが、何よりも地域や伝統などをバックグラウンドとした高校野球の「郷土史」的な部分に強く魅力を感じているからだ。そのせいか、高校野球でも規模の大きい秋、春、夏のいわゆる三大大会や甲子園での全国大会よりも、規模は小さいながら地域に根差した地区大会(例えば北九州市長杯や筑豊五地区大会など)の方に私は心惹かれるところがある。これはただ、メジャーなものよりニッチなものが好きなだけということかもしれないが…。その結果、今では趣味の一環として福岡県北部の高校野球地区大会に関する資料の収集と調査をしている。だから、今回のエッセイはある意味趣味の成果の一つとも言える。
さて、前置きが長くなってしまったので本題に入っていこう。このエッセイのテーマの「明春卒業選手送別北九州五市対抗高校野球大会(以下送別大会)」であるが、その名の通り、高校3年生の野球部員を送別するために行われていた各市合同チームでの大会で、1951年から1959年までの間、毎年11月下旬から12月上旬、もしくは9月に福岡県高等学校野球連盟(以下福岡県高野連)主催、朝日新聞西部本社後援で開催されていた。当初は北九州の旧五市4チーム(門司市、小倉市、八幡市は1市で1チーム。戸畑市と若松市のみ2市で1チーム)によるリーグ方式で実施されていたが、1953年の大会からはトーナメント方式に変更されている。1956年からは京築地区が参加し、大会名も「北九州五市」から「北九州五地区」へと改称された。以上が当時の新聞記事からかいつまんだ送別大会の概要である。
私はこれまで送別大会を調査した中で、ほとんどの年度については試合結果と優勝地区を把握することができていたが、1951年の第1回大会だけは当時の新聞各紙の地方面を片っ端から調べてみたものの、いくつかの試合結果が不明で優勝地区を特定することができなかった。そこで、今回この第1回大会の幻の優勝地区について、集めた資料を整理して再調査してみることにした。ちなみに、すでに判明している各年度の試合結果及び優勝地区は、以下の表1の通りである

表1.送別大会試合結果一覧

優勝地区不明の第1回大会は、1951年11月24日、25日、12月2日の3日間で行われた。この試合日程のうち、スコアを確認できているのは大会初日の門司地区9‐6八幡地区、小倉地区6‐2若戸地区の2試合のみで、スコア不明ながら結果のみ確認できているのが大会二日目の八幡地区△‐△小倉地区(引分)、若戸地区○‐●門司地区(若戸地区の勝利)の2試合。最終日となった12月2日の小倉地区‐門司地区と八幡地区‐若戸地区の試合結果は、朝日新聞、毎日新聞、西日本新聞で調査したが、各紙とも掲載はなかった。大会二日目終了時点では、小倉地区1勝1分、門司地区1勝1敗、若戸地区1勝1敗、八幡地区1敗1分となっていため、最終日の結果次第で優勝地区は変わってくる。この最終日の優勝地区決定の勝敗組み合せは以下の表2の通り9パターンある。

表2.第1回大会最終日試合結果パターン(色つきのセルが優勝地区とその勝敗)

 ただ、ここまで調べてはみたが、この時点で優勝地区を明らかにできるだけの資料は私の手元になく、万事休すかと思われた。しかし、ついに鍵となるかもしれない、ある試合結果を北九州市立中央図書館所蔵の毎日新聞の原紙で発見した(国会図書館所蔵のマイクロフィルムでは欠号していた)。12月3日に「高校野球卒業生送別試合」として八幡地区対小倉地区の試合が小倉豊楽園球場で行われていたのである。この試合では八幡地区が9‐3で小倉地区を破っている。しかし、すでに八幡地区と小倉地区は大会二日目で試合を行い、引き分けているため、送別大会としては当初の予定にないはずの試合であった。
そこで、この試合の位置づけとして考えられるのは二つである。一つ目は送別大会と別のオープン戦、二つ目は送別大会のリーグ戦同成績の地区同士による順位決定戦(2位・3位)だ。前者であれば、送別大会とは無関係の試合であるが、もし後者の順位決定戦であった場合、表2の「パターン4」のみが小倉地区と八幡地区がリーグ戦同成績(1勝1敗1分)となるため、優勝は門司地区であった可能性が浮上してくるのだ。
と、(個人的に)盛り上がってきたところで、エッセイを書くにはタイムアップとなった。結局、優勝地区を明らかにできるだけの決定的な証拠を7月12日の〆切日までに私は見つけることができなかったのだ。かなり気合を入れて調べてきただけに非常に残念である。しかしながら、同時に私は言い知れぬ満足感にも包まれている。それは、おそらく未だかつて誰も調べたことがなかった(調べようともしなかった?)であろう送別大会について、初めて紹介した第一人者になれたに違いないという確信があるからだ。
私は前述の通り、福岡県北部で行われてきた高校野球の地区大会を調査しているが、試合結果がすべて判明している大会となるとそう多くはない。これは昔の大会だからというわけではなく、最近の大会だったとしても同じだ。イニングスコア、バッテリー、使用球場などの基本情報でも、新聞なら各紙で大会の扱いや掲載内容の有無が異なるし、福岡県高野連がホームページで公開している地区大会の試合結果は2009年からのトーナメント表とスコアだけ。既存の連盟史や野球部史でも地区大会の記録掲載はほとんどないのが実情である。つまり、地区大会を実際に調べるとなると基本情報をそろえるだけでもなかなか大変なことなのだ。しかし、それでも私が地区大会にこだわって調査しようと思うのは、メジャーな大会と違い残された資料が少ないからこそ、今回の送別大会のように日の当たる(かもしれない)機会を作ることで、たまにはその存在を思い出してもらいたいと考えているからなのである。
福岡県高野連のホームページによると今夏の地方大会中止に伴う代替大会は、全試合無観客試合のため、球場や試合日が非公開だ。しかも、すでに開幕している筑後地区や福岡地区の試合結果の新聞掲載内容は、朝日新聞と毎日新聞はスコアのみで、読売新聞はイニングスコアと会場表記があるものの個人成績はない。これはとても残念なことである。新型コロナウィルスの感染拡大という非常事態下で開催されることになった今大会だからこそ、新聞各紙には例年の夏の地方大会と同じように試合結果を取り上げて欲しかった。福岡県高野連には、今大会で引退する球児たちのためにも、ホームページ上で公開する試合結果情報の充実を早急に検討してもらいたい。
最後になってしまったが、私は今回のエッセイコンテストに投稿することができて本当に良かったと思っている。なぜなら、これまで高校野球について資料の収集による知識のインプットは出来ていたが、それを文章としてまとめるためのアウトプットの作業がなかなか進まずにいたからだ。そのため、今回エッセイという形で送別大会の記録にスポットライトを当てる機会を得ることができたのは幸いだった。このエッセイを通して、少しでも「明春卒業選手送別北九州五市対抗高校野球大会」に興味を持っていただけたとしたら、私としてはこの上ない喜びである。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

北九州の高校野球を見る際には、北九州市長杯、新人戦、一年生大会、そしてライバル校同士の定期戦にもぜひ注目してもらいたい。(写真は2019年6月13日に行われた第1回小倉東・小倉西定期戦の閉会式から。筆者撮影)

<後日談>
私は、エッセイの〆切後、1951年12月3日の八幡地区9‐3小倉地区の試合についてイニングスコアを原紙で確認すべく、1951年12月4日の毎日新聞で記事を探していた(手持ちのメモ資料だと試合結果は9‐3なのにイニングスコアは6‐3だったのだ)。しかし、なぜかどうしても記事を見つけることができない。そのため北九州中央図書館に問い合わせをしたり、国会図書館の他紙のマイクロフィルムでの捜索もしたりしたのだが、それでも記事を見つけられなかった。
そこでメモの間違いの可能性を考え、再度記事の捜索をしてみたところ、なんということもない、この記事は1951年ではなく、その一年前の1950年の12月4日のものであったことが判明した。恥ずかしながら、私は最初に調査した際に年度を間違えて記録していたのだった。ちなみに、1950年に送別試合として開催されたのは全八幡‐全小倉の1試合のみだが、この試合が翌年以降の五市対抗での送別大会の礎になったのはまず間違いないだろう。
結局、今回のエッセイの半分ほどは誤ってメモした情報を元に考察していたのである。全くもってあきれた話で、調査内容としても未完成、しかも誤情報を載せたまま投稿するハメになったことは誠に痛恨の極みである。今後の調査ではしっかりと記録するようにしたい。大変失礼いたしました。

作者:立花 誠さん