インタビュー企画「KITAQ Style 1000 Project ~北九州市の“人”をもっと知る~」

海に臨む【エッセイコンテスト 響灘菜園賞受賞作品】

エッセイコンテスト「第1回 キタキュースタイルカップ」 響灘菜園賞受賞作品

帰ってきた。
荷ほどきが済んで迎えた、最初の晴れの日。わたしは母の自転車を借りて、真っ先にそこへ向かった。帰ってきたらかならず再訪すると、決めていた場所に。

高校2年生の時だっただろうか。国語の模試を解いていると、初めて見る単語に出くわした。それは、「原風景」という言葉だった。わたしは課題文の文脈から、それが「子供の頃の記憶の中で現在の自身に色濃い影響を残している光景や風景」だったり、「生まれ育った環境を象徴するような風景」を指す語彙なのだと理解した。
転勤族の親とともに引っ越しを繰り返してきたわたしにも、果たしてそんな風景があるだろうか。問題を解き進める手を止めて、ふと思い返してみたとき、くっきりと脳裏に浮かんだのは、遠くまでひろがる海と、足元いちめんの干潟だった。そして、ああ、帰りたい、と思った。それが曽根干潟だった。そこは生まれてから最初の10年を暮らした北九州の街、いわば故郷で、わたしがもっとも愛着を感じている場所だった。
愛媛の高校を卒業して数年が経ち、広島で大学生をしていた頃、父の転勤の都合で実家がふたたび北九州に移ることになったと聞いて、わたしはひそかに決心した。もういちどじぶんの足で、あの干潟を訪れようと。

自転車を漕いで、街並みを通り抜ける。この道は、かつてわたしがランドセルをかるって歩いた通学路。いま通り過ぎたのは放課後によく通っていたそねっとという図書館で、ここを曲がればお習字の先生の家。この辺りのどこかの庭にたしか毎年さくらんぼが実っていて、こっそりたべている友だちもいたな〜、懐かしい。住宅街を過ぎてふたたび通りに出ると、いい香りが漂ってくる。近くにお醤油屋さんがあるのだ。さらに進むと、母校である曽根東小学校が見え、そこから先はいちめんの田んぼ道だ。その日は梅雨が明けたばかりの暑い日で、日差しがきらきらと眩しかった。信号待ちで見かけた青鷺の美しさに惚れ惚れしたり、目的地が近づくに連れひろがる青空に胸をときめかせながら、まだまだぐんぐん漕いで。40分ほど経った頃だろうか、うろ覚えの道の先に、急に視界がひらけて、はっとした。あの先が曽根干潟だ。

防波堤のそばに自転車を停めて、すぐに駆け降りた。帰ってきた!と思った。なんだか底抜けに嬉しかった。子供の頃、先生に連れられてみんなでよくここへ来たのだ。春の終わりのレクリエーション大会では、全身泥まみれになりながら干潟でだるまさんが転んだをしたり、いま硬いなにかに触れたぞ!と思ったら、それがカブトガニの赤ちゃんだったりした。それに毎年、ここでゴミ拾いもした。トビハゼのことも、シオマネキのことも、わたしはこの海で初めて知ったし、バードウォッチングに参加した時の楽しかった気持ちも、朝焼けの時刻に起きて漁師さんの舟でスナメリを探したことも、ぜんぶ憶えている。人間とそれ以外の生命を切り離して「自然」が好きだと言ってしまえることに違和感を持ってしまうくらい、わたしはありのままの海が、風が、川が、生き物が、とても好きで、憧れで、そしてそんなわたしを形作ったのは、間違いなくこの海であり、この風であり、この干潟なのだった。
わたしはその日、かんかん照りもかまわず時を忘れて海鳥を眺め、石に潜む蟹を探して遊んだ。そして、ここを訪れれば、いつでも立ち返ることができると気づいた。この風景から大事なことを全身で感じ取っていた、子供の頃のわたしに。

あの夏から1年。病を得て大学を中退したわたしは今、北九州の門司港という街に暮らし、働いている。感じのいい焼き鳥屋があちこちに佇むこの街には、暮らしに根差した昔ながらの商店街があり、通り沿いにはいつもあたたかい言葉をかけてくれる定食屋があり、裏路地に入ると品揃えの豊かな花屋まである。とても住みよい街ではあるけれど、生きていくのにはそれ以前にどうしてもお金が必要で、大人というのは思っていたより大変だ。
けれどわたしには、とっておきの味方がいる。家から自転車を漕いで少し行くと、関門海峡という名の海がある。ここ門司港は、かつて九州の玄関口と謳われた港町なのだ。

この街の強い海風に目を見開き、行き交う船の汽笛に耳を澄ます時、心にも大きな風が吹き込み、波が流れ込んでくる。海はそうやって、日々の悩みや生きづらさを、荒々しくもおおらかに溶かしてくれる。生まれ育った曽根の干潟といまを暮らす門司の港が程近くつながっているように、子供の頃のわたしが大人の私へとつないできたものが、なにかきっとあるはずだ。まだわからないその問いの答え、おそらくは生き方の軸になるその糸口を、見失いそうになった日は自転車に飛び乗って。この街の海に臨む。

作者:かぼちゃうさぎさん